総合案内 所蔵資料 刊行物 行事・講座 リンク集 TOPページ
パネル展示 ケース展示 歴史講座 古文書講座 パネル特別展

■ これまでのケース展示
 
  授業で使える和歌山の資料 (令和6年2月9日〜令和6年4月10日)  



  当館では、令和5年5月、県内に伝わる古文書等の歴史資料を授業の教材として活用してもらうことを目的に、デジタルアーカイブ「和歌山県歴史資料アーカイブ」内に「授業で使える和歌山の資料」と題したウェブページを開設しました。
本ページでは、当館が所蔵する古文書等の中から、日本史の教科書に登場する事件やできごとに関連するものをピックアップし、資料のデジタル画像に解説シートを添えて公開しています。

 身近な地域に伝わる歴史資料から、教科書の学習事項の一端を学ぶことができる内容としており、小学校・中学校・高等学校における歴史(日本史)、総合的な学習(探究)の時間などの授業、ふるさと学習のほか、一般の方の学習用としても幅広く活用いただけます。資料は今後、順次追加公開していく予定ですので、ぜひご覧ください。

●「授業で使える和歌山の資料」チラシ


●「授業で使える和歌山の資料」ページはこちら


 文責:玉置 將人
 
  手紙でたどる明治時代の移民生活−甚四郎と、妻お峯のその後−(令和5年11月18日〜令和6年2月7日)  



 本展示では、パネル展示で取り上げている岩ア甚四郎(紀三井寺村出身)関係の資料の実物を展示します。今回は、家族を日本に残して渡米した甚四郎と家族のその後が分かる二つの資料を取り上げます。

 展示に係る内容は、『和歌山県立文書館だより』第61号でもふれています。ぜひご覧ください。

●『和歌山県立文書館だより』第61号』

 文責:西山 史朗
 
  手紙でたどる明治時代の移民生活−アメリカでの働きかた−(令和5年9月15日〜令和5年11月5日)  



 本展示では、現在開催中のパネル展示で取り上げている岩ア家文書の移民関係資料の実物を展示します。
 今回は、アメリカで働く甚四郎からの手紙を取り上げます。手紙には、在米中の様々な事柄が、紀州弁を交えつつ表現豊かに記されています。
 展示に係る内容は、『和歌山県立文書館だより』第60号でもふれています。ぜひご覧ください。

●『和歌山県立文書館だより』第60号』

 文責:西山 史朗
 
 
 現在のケース展示に戻る
 
  手紙でたどる明治時代の移民生活−アメリカに到着するまで−(令和5年7月14日〜令和5年9月13日)  

 和歌山県は、戦前・戦後をとおしての海外移住者数が全国6位の移民県です。令和5年10月には第2回和歌山県人会世界大会が開催され、国内外の県人会会員が一堂に会し、移民の歴史を共有するとともに交流を深める予定です。

 和歌山県立文書館寄託の岩ア家文書には、明治・大正時代に紀三井寺村(現和歌山市三葛・紀三井寺・内原・布引・毛見)からアメリカに渡った、様々な経歴をもつ移民たちから届いた年賀状や手紙などが200点以上残されています。紀三井寺村は多くの移民を海外に送り出した地域だったことがうかがえます。



 本展示では、現在開催中のパネル展示で取り上げている岩ア家文書の移民関係資料の実物を展示します。
 今回は、岩ア甚四郎(紀三井寺村出身)の旅券取得申請書、横浜到着及びアメリカ到着を知らせる手紙を取り上げます。

 展示に係る内容は、『和歌山県立文書館だより』第59号でもふれています。ぜひご覧ください。

●『和歌山県立文書館だより』第59号』

 文責:西山 史朗
 
  民間所在資料保存状況調査より 杉谷家文書(田辺市龍神村東)(令和5年5月12日〜令和5年7月12日)  
   
 文書館では、和歌山県内の古文書などの所在及び保存環境を確認する「民間所在資料保存状況調査」を実施しています。令和4年度からは、田辺市教育委員会の御協力をいただき、旧龍神村・旧中辺路町・旧本宮町域を対象地域として、特に災害関連記録を中心に調査中です。
 この調査に伴って現在一時預かり中の杉谷家文書を御紹介します。

 杉谷家は、中世に鶴ヶ城(現田辺市龍神村東)城主であった山地(さんじ)玉置家の末裔との由緒を持ち、鶴ヶ城の近くに続く旧家です。江戸時代末期の当主為左衛門重嘉が文政8年12月(1826)、地方在住の紀州藩家臣である山家同心杉谷又左衛門の養子となってその職を継いで以来、杉谷姓となります。為左衛門は東村庄屋も務めました。 為左衛門の長男欽十郎も東村庄屋を務め、慶応2年(1866)日高郡胡乱者改役(うろんものあらためやく)に就任します。また、明治に入って山地組大庄屋・同郷長・同戸長(こちょう)・第六大区六小区副区長・同区長を歴任しました。
 欽十郎の養子静一郎は、日高郡役所書記を勤めた後、和歌山県会議員・東村外四ヶ村連合戸長・上山路(かみさんじ)村会議員・日高郡会議員などの公職を歴任しました。静一郎の記した明治9年(1876)以降昭和初年に至る膨大な日誌が残っており、そのうち明治22年大水害についての詳細な記録(「水害日誌」)が広く知られています。ここに展示しているのは、杉谷為左衛門・欽十郎・静一郎三代の紀州藩・和歌山県での役職に関する文書です。

 杉谷家文書は、現在22箱分を文書館が一時預かりし、撮影・調査を進めていますが、静一郎「水害日誌」の他は、これまで『日高郡誌』、『龍神村誌』でわずかに採り上げられているだけで、全体としては未開拓です。 今後の活用によって新事実の発見が期待できる、貴重な記録群といえます。
 文責:藤 隆宏
 

  文応元年(1260)書写の奥書をもつ『覚源抄』(令和5年3月10日〜令和5年5月10日)  
   
 令和元年度、和歌山県立文書館では、考古学研究者で県内の自治体史編纂にも携わった故巽三郎(たつみさぶろう)氏の旧蔵古文書約200点の寄贈を受けました。
 今回ご紹介する『覚源抄』はそのうちの一つで、鎌倉時代前期に成立した仏書です。本書は、真言密教の事相(じそう)(実践)と教相(きょうそう)(理論)について、高野山検校(けんぎょう)を務めた覚海(かくかい)と、根来寺を開山した覚鑁(かくばん)の弟子融源(ゆうげん)の口説をまとめたもので、写本で伝えられています。

 展示している『覚源抄』の奥書には、文応元年(1260)7月から8月にかけて、高野山三昧寿院(さんまいじゅいん)で、忍空(にんくう)という人物が書写した、とあります。
 展示物は、文応元年の写本をさらに書き写したものですが、この年紀は現在知られている写本のうちもっとも古く、原本に近い内容が記されていると推測されます。

  『和歌山県立文書館紀要』第24号では、奥書の詳細な検討、他写本との内容の比較を行い、当館所蔵本の特徴などについてふれていますので、ぜひご覧ください。

●『和歌山県立文書館紀要』第24号 
文責:西山 史朗
 

  新収行政資料の紹介 和歌山県の林業・山村振興関係資料 (令和5年1月5日〜令和5年3月8日)
   

●関連パネル「展示資料のもくじ」
 
文書館では、古文書や公文書とともに、県や市町村、国などが発行する行政刊行物等(行政資料)を広く収集・保存しています。
 行政刊行物とは、行政機関がさまざまな情報をまとめて発行するもので、広報資料や統計資料、計画書、報告書、業務概要、研究紀要、地図、ちらし、パンフレットなど多岐にわたります。
 令和4年9月、元県職員の方から和歌山県が発行した行政刊行物81点を寄贈いただきました。

 これらは、主に昭和40年代〜平成期における和歌山県の林業行政及び山村振興行政に関する行政刊行物で、県内の林業の概要を紹介した冊子のほか、県が実施した各種事業に関する資料があります。
 中には、平成5年に開園した護摩壇山森林公園の設置にかかわる調査報告書や昭和59年度から平成5年度にかけて開催された山村と都市の交流イベント「ふるさとふれあいフェア」のパンフレット類なども含まれています。

 和歌山県は、古くから「木の国」と呼ばれるように、県の面積の4分の3以上を森林が占めており、林業の振興や森林の整備、山村の振興等に向けたさまざまな施策が講じられてきました。
 今回寄贈いただいた資料は、こうした和歌山県における行政の取組の一端を知るうえで大変貴重なものといえます。


●令和4年度新収行政資料「和歌山県の林業・山村振興関係資料」目録
文責:玉置 將人
 
 新収古文書の紹介 和歌山高等女学校教諭 竹之内喜八郎資料 (令和4年10月14日〜令和4年12月28日)
   
 昭和7年(1932)から終戦直前に徴兵されるまで和歌山県立和歌山高等女学校などで音楽教員を勤めた竹之内喜八郎の遺した資料が、令和4年4月に寄贈されました。
 竹之内喜八郎は、明治40年(1907)に群馬県前橋市に生まれ、昭和2年に群馬県師範学校を卒業後、同県内の尋常高等小学校の訓導を勤めていましたが、昭和5年、東京音楽学校(現東京藝術大学音楽学部)に併設されていた第四臨時教員養成所に入学します。同養成所は、当時不足した師範学校・中学校・高等女学校の音楽教員を養成するために大正11年(1922)から昭和7年までの10年間だけ設置された国立施設でした。192名の受験者から選ばれた竹之内ら25名の第9期生は、同養成所最後の卒業生です。
 昭和7年3月、竹之内は、同養成所の卒業と同時に文部省から和歌山県への赴任を命じられ、和歌山県師範学校訓導・同県立和歌山高等女学校(和高女)教諭兼任となり、昭和11年から和高女専任教諭となりました。
 また、第四臨時教員養成所在学中から作曲家として活動し、群馬童謡詩人会などで作品を発表していました。和歌山県に赴任してからも、公務の傍ら国内の作曲家団体である大日本作曲家協会に所属し、和歌山童謡詩人会、大阪童謡芸術協会の活動に参加して童謡の作曲を行い、県内の少年団歌や警防団歌、幼稚園園歌を作曲するなどして活躍しました。
 しかし、終戦直前(年月日不明)に徴兵され、朝鮮半島北部で戦死してしまいました(記録上は昭和20年8月15日没)。

 寄贈された資料約140点は、竹之内の作曲家及び教員としての足跡を伝えるもので、楽譜類70点余、写真30点余、辞令類20点余及び履歴書・遺書などです。
 和歌山県内外における童謡運動や、作曲家が戦時下で果たした役割を伝える資料として、また教育史資料として、重要かつ興味深い資料群です。

 

文責:藤 隆宏
 
 新収古文書の紹介 宮井家文書(印南町島田) (令和4年8月13日〜令和4年10月12日)
   
 令和3年12月、江戸時代に日高郡南谷組島田村庄屋を勤めていた宮井家に伝えられていた文書13点が文書館に寄贈されました。
 伝承によると、宮井家は中世に島田村に土着し、江戸時代初頭の当主庄左衛門は一時紀州藩主浅野家の家臣となりますが、故あって浪人となり、元和元年(1615)の大坂夏の陣で討ち死にしました。
 庄左衛門のあと武右衛門・武太夫・武八郎…と続き、徳川家が藩主となった紀州本藩領島田村庄屋を勤めました。

 宮井家文書には、@同家の由緒に関する記録のほか、A島田村と隣村の田辺領切目組西野地村(現印南町西ノ地)との境目争いや、村民に対して藩から認められた漁業上の特権に関する記録などがあります。後者は、村の権利の証拠として、大事に伝えられてきたものでしょう。
 村民に与えられた漁業特権については、『和歌山県立文書館紀要第19号』で採り上げましたので、詳しくはこちらをご覧ください。


●『和歌山県立文書館紀要第19号』 
 

文責:藤 隆宏
 
 外交史料展「外交史料と近代日本のあゆみ」より(1)―幕末維新期和歌山の外交関係―
  巽三郎旧蔵文書のうち「海防図」(パネル展示の実物資料) 
(令和4年6月10日〜令和4年8月11日)
   
 嘉永6年(1853)、浦賀(現神奈川県横須賀市)にアメリカの使節ペリーが来航、翌年には下田(現静岡県下田市)と箱館(現北海道函館市)を開港することなどを定めた日米和親条約が結ばれました。ペリー来航の情報は紀州へも伝えられ、多くの人びとが衝撃を受けました。
 嘉永7年の9月から10月には、ロシアの使節プチャーチン率いるディアナ号が紀州に立ち寄り、加太(現和歌山市加太)沖に碇泊しました。このとき、紀州藩は、かねて取り決めていた計画に基づき、約1万人を動員して沿岸警備を行いました。
 展示している「海防図」は、和歌山城周辺に設けられた台場(だいば)・狼煙場(のろしば)の位置や地勢を示した地図です。
 紀州藩は城下周辺を8つの地区に分け、外国船の来航に備える計画を定めていました。取り決められた区割り・担当家臣・配置人数は以下のとおりです。

 
         大川浦〜田倉崎        水野丹波守      1,445人
          田倉崎〜外浜          金森孫右衛門     1,275人
          外浜〜雑賀崎          岡野平大夫      1,007人
         雑賀崎〜和歌浦中        三浦長門守      1,593人
         和歌浦中〜和歌浦洲崎     久野丹波守      1,267人
         毛見浦〜藤白北境        加納平次右衛門   1,208人
         藤白北境〜塩津浦        佐野伊左衛門       930人
         塩津浦〜大崎浦観音崎     戸田金左衛門     1,112人
文責:藤 隆宏
 
 日高郡ヘの出稼ぎ漁師たち―塩崎家文書(日高町津久野)より― (令和4年4月15日〜令和4年6月8日)
   
 江戸時代、紀州の漁師は関東地方や九州など日本各地に盛んに出漁し、新たな漁場を開発したことで有名ですが、逆に、紀州沿岸各地に入漁(出稼ぎ)に来る他国の漁師も多くいました。原則として、紀州藩は他国漁師の入漁に対してはおおらかな方針でした。
 日高郡津久野〈つくの〉浦・小浦〈おうら〉(現日高郡日高町津久野・小浦)の小さな入江には、江戸時代を通じて阿波国堂ノ浦・北泊〈きたどまり〉(現徳島県鳴門市)の釣漁師、和泉国岸和田(現大阪府岸和田市)の手繰〈てぐり〉網漁師、摂津国兵庫(現兵庫県神戸市)の延縄〈はえなわ〉漁師が集団で出稼ぎに来ていました。
 三つの漁期が重なる春には、この入江に100艘・300人を超える他国漁船・漁師がひしめき合っていたと思われます。
 津久野浦の庄屋・御口前所〈おくちまえしょ〉(流通税役所)請負を務めた塩崎家の古文書には、他国からの入漁者に関する記録が多く残っています。
 阿波国堂ノ浦・北泊の漁師たちについては、『和歌山県立文書館だより第39号』で採り上げましたので、詳しくはこちらをご覧ください。


●『和歌山県立文書館だより第39号』  
 

文責:藤 隆宏
 
新収行政資料の紹介 元和歌山県農林部長・鳥取県知事 遠藤茂旧蔵資料 (令和3年2月11日〜令和4年4月13日)
   
  昭和20年代の和歌山県の農林行政に関する行政資料57点を新たに収集しました。
  この資料は、かつて当館に勤めていた方が数年前に大阪の古書市で発見して購入し、令和3年9月、当館へ御寄贈くださったものです。
  資料に「遠藤」の押印と「農林部長」の書付があることなどから、これらは昭和25年(1950)から同29年(1954)まで和歌山県農林部長を務めた、遠藤茂(しげる)(1906〜1981)の旧蔵書であることが判明しました。
  遠藤は鳥取県出身で、昭和期に活躍した農学博士・政治家です。大正15年(1926)に鳥取高等農業学校(現鳥取大学農学部)を卒業後、京都帝国大学勤務などを経て、昭和14年(1939)以後は、朝鮮半島各地の農事試験場で指導を行いました。戦後は兵庫県・和歌山県で公職に就いた後、昭和29年(1954)から同33年(1958)まで鳥取県知事を一期務めました。
  遠藤が和歌山県農林部長を務めた昭和20年代後半には、食糧の増産が求められる一方、県内では「ジェーン台風」(昭和25年)や「7・18水害」(昭和28年)をはじめ、歴史的な風水害が毎年のように発生し、農林業にも甚大な被害を与えました。
  今回収集した資料の中には、こうした災害の被害状況に関する資料のほか、県が発行した農業改良普及資料や試験場の報告書類なども含まれています。   戦後復興期の和歌山県の農林行政を知る上で、たいへん重要な資料群といえます。


●遠藤茂旧蔵資料目録(PDF形式)  
 

文責:玉置 將人
 
新収古文書の紹介  有田郡山保田組大庄屋 堀江家文書 (令和3年11月3日〜令和4年2月9日)
     
 昨年度文書館で新たに収集した古文書を紹介します。
 この堀江家文書は、有田川町教育委員会で所蔵する『清水町役場文書』あるいは『堀江家文書』と呼ばれる古文書と同出所と考えられるもので、古書店から購入しました。
 木箱一箱に約100点の文書が入っており、寛保2年(1742)以降の「御用留」、組内各村の「就切支丹御改家並判形帳(きりしたん(に)つきおあらためいえなみはんぎょうちょう)」や『紀伊続風土記』の調査記録などがあります。
 堀江家は、三代にわたって大庄屋をつとめた家で、展示している文書は、慶応2年(1866)正月から書き始められた「御通留(おかよいどめ)」です。筆者の堀江亀太郎は、明治になって山保田組(やまやすだぐみ)郷長(ごうちょう)をつとめていたことから、「御通留」には、明治政府や県からの命令や伝達事項が記されており、大変貴重な資料です。
 写真は、明治4年(1871)11月に行われた府県統廃合を知らせる文書を写した部分です。
 大政奉還以後、和歌山県は数度の変遷を経たのち、府県統廃合によって現在のかたちとなりました。県では、これを記念して平成元年に条例を制定し、11月22日を「ふるさと誕生日」としています。
 今年は、和歌山県誕生150周年を迎えます。「御通留」は、和歌山県誕生の「生き証人」と言えるでしょう。    

文責:砂川 佳子
 
 現在のケース展示に戻る
 

  「災害の記憶」を伝える石碑と古文書―「地域に眠る『災害の記憶』と文化遺産を発掘・共有・継承する事業」より―
   塩崎家文書のうち津波関係文書 (令和3年8月13日〜令和3年10月21日)
   
   塩崎家文書は、江戸時代に日高郡津久野浦で農業・商業・漁業を営むとともに、代々同浦の庄屋を務め、また、紀州藩の流通税を取り立てる役所である御口前所(おくちまえしよ)の運営も請け負った家に伝わった約700点の古文書です。この中に、宝永4年(1707)10月4日に発生した宝永地震津波と、嘉永7年(1854)11月5日に発生した安政南海地震津波による被害に関する記録があります。

  これら展示している地震・津波に関する記録は、『和歌山県立文書館紀要 第22号』「日高町津久野の宝永・安政津波記録と紀州藩の「日銭」徴収―塩崎家文書より―」で解読しましたので、詳しくはそちらをご覧ください。
  文責:藤 隆宏
 
  「災害の記憶」を伝える石碑と古文書―「地域に眠る『災害の記憶』と文化遺産を発掘・共有・継承する事業」より―
   瀬戸家文書「日高川河口絵図」 (令和3年6月11日〜令和3年8月11日)
   
   日高川河口絵図(縦83.5p、横48.0p)は、1832年に作成されたもので、日高川河口にある名屋浦(現在の御坊市名屋および名屋町一〜三丁目)周辺が描かれています。右端を北から南に流れているのが日高川、左端を北から南に流れているのが西川です。日高川右岸の五軒屋松と呼ばれた場所から西川左岸にかけて、「波除堤(なみよけつつみ)」と呼ばれる防波堤が描かれています。
  1707年の宝永地震津波では、日高川河口付近も被害を受けました。江戸時代の「名屋浦鑑(なやうらかがみ)」には、紀伊藩(藩主は徳川吉宗)は被災者に粥などを施し、6年後に波除堤が完成した、と記されています。この波除堤が、絵図に描かれた「波除堤」と考えられます。
  現在の日高川河口付近は、当時の地形と大きく変わっていますが、現地調査によって、通称十本松通(御坊市名屋)と呼ばれた道路が、絵図に描かれた「波除堤」のあった場所であることが確かめられました。現在、堤としての痕跡はほとんどみられませんが、江戸時代の防災対策を知るうえで貴重な災害痕跡といえます。
  文責:藤 隆宏
 
  新収古文書の紹介 宮本守中・道夫関係資料   (平成31年2月15日〜平成31年4月11日)
 
     日高川河口絵図(縦83.5p、横48.0p)は、1832年に作成されたもので、日高川河口にある名屋浦(現在の御坊市名屋および名屋町一〜三丁目)周辺が描かれています。右端を北から南に流れているのが日高川、左端を北から南に流れているのが西川です。日高川右岸の五軒屋松と呼ばれた場所から西川左岸にかけて、「波除堤(なみよけつつみ)」と呼ばれる防波堤が描かれています。
  1707年の宝永地震津波では、日高川河口付近も被害を受けました。江戸時代の「名屋浦鑑(なやうらかがみ)」には、紀伊藩(藩主は徳川吉宗)は被災者に粥などを施し、6年後に波除堤が完成した、と記されています。この波除堤が、絵図に描かれた「波除堤」と考えられます。
  現在の日高川河口付近は、当時の地形と大きく変わっていますが、現地調査によって、通称十本松通(御坊市名屋)と呼ばれた道路が、絵図に描かれた「波除堤」のあった場所であることが確かめられました。現在、堤としての痕跡はほとんどみられませんが、江戸時代の防災対策を知るうえで貴重な災害痕跡といえます。
 寄贈いただいた資料の多くは道夫が収集した関東大震災、二・二六事件、戦争に関する新聞やグラフ誌ですが、守中の卒業証書、熊野新報社関係資料、父子への感謝状・表彰状、道夫が匿った共産主義者から取り上げたという同人誌などもあります。

文責:藤 隆宏
 
  「災害の記憶」を伝える石碑と古文書―「地域に眠る『災害の記憶』と文化遺産を発掘・共有・継承する事業」より―
   坂口俊夫家文書「津浪之由来」
 (令和3年4月9日〜令和3年6月9日)
       嘉永7年(安政元年)11月5日に発生した安政南海地震津波の直後に、海部(あま)郡横浜浦(現日高郡由良町里)に住む49歳の毛綿屋平兵衛が記した有名な古文書です。
  平成28年、「地域に眠る『災害の記憶』と文化遺産を発掘・共有・継承する事業」を機に文書館へ寄贈いただきました。
  文書の内容は、@宝永地震津波(1707年)のこと、A安政南海地震津波に至る前兆現象、B伊賀上野地震(嘉永7年6月発生)のこと、C地震・津波の前兆現象(あぶき)、D異国船来航、E嘉永7年11月4日に発生した安政東海地震による横浜浦周辺の被害状況、F翌5日に発生した安政南海地震津波による横浜浦周辺の被害状況、G紀伊国内の被害状況、H四国の状況、I余震、J津波による横浜浦周辺の浸水域、K大地震・津波の際の心得、L紀州藩の対応、M物価状況、N絵図と、豊富です。
   特に横浜浦を中心とした由良湾沿岸地域の被害状況が詳しく記されており、非常に重要な災害記録であることから、Fの部分を展示しています。
  「どたんくくくくく」と海鳴りを描写するなど、当時の恐ろしさ・緊迫感が伝わってきます。 

文責:藤 隆宏
 
  ぼっかんさん(貝塚寺内町領主)の紀北旅行―令和2年度貝塚市郷土資料展示室企画展から―  
  (令和3年1月6日〜令和3年4月7日)
   
 大阪府貝塚市の浄土真宗貝塚御坊願泉(がんせんじ)寺とその住職を代々つとめる卜半(ぼくはん)家は、親しみを込めて「ぼっかんさん」とも呼ばれます。江戸時代、お坊さんである卜半家は、貝塚寺内町の地頭(領主)でもありました。
 文政7年(1824)9月下旬、卜半家第10代当主了真(りょうしん)は、妻や6人の子(後の第11代了諦(りょうてい)となる太郎丸ら「若君様」2人・「姫様」4人)、家来らを引き連れ、6泊7日にわたり総勢45名で紀伊国北部の名所を旅行しました。
 和歌山県立文書館蔵『紀の路御遊覧日記』は、この旅行に随行した家臣が了真の命を受けて書き留めた旅行記です。粉河寺(現紀の川市粉河)、紀三井寺(以下、現和歌山市)、和歌浦、鷺森御坊、加太浦、大川浦の報恩講寺など、一行が巡った名所の様子や、各所で詠んだ俳句や漢詩、宿屋や茶屋の名、食事のメニュー等も詳細に記録されています。この旅行記を基に、約200年前のぼっかんさん一行の観光旅行の足跡を見ていきます。
 本展示は、貝塚市教育委員会の御協力をいただき、令和2年度貝塚市郷土資料展示室企画展「江戸時代の人びとの旅行記〜古文書から見た様々な観光名所〜」の内容を和歌山県立文書館のパネル・ケース展示で御紹介するものです。
文責:藤 隆宏
 

  濱口梧陵生誕200年記念 県立図書館・文書館合同展示
  濱口梧陵文庫の漢籍 歴史書          (令和2年7月18日〜令和2年9月9日)
  濱口梧陵文庫の和本 古碧吟社と菊池海荘  (令和2年9月11日〜令和2年11月8日)
  濱口梧陵文庫の和本 海防関係         (令和2年11月21日〜令和2年12月27日)
        

 「濱口梧陵文庫」は、平成24年に梧陵の子孫から和歌山県立図書館に寄贈された「西濱口」家の蔵書です。その規模は、500種余、約5,700冊にのぼります。

 特に、3,950冊と蔵書の7割を占める中国からの輸入書(漢籍)は、驚くほど高価なものでしたが、大大名の蔵書に匹敵するほど充実しています。梧陵は、日本屈指の大蔵書家でもあったのです。

 「濱口梧陵文庫」の中から、貴重な漢籍と、梧陵の活躍と深く関係する重要な和本(日本の本)を紹介します。     
文責:藤 隆宏
 
  古文書徹底解釈 紀州の歴史 第七集 拙者出張り居り候   (令和2年5月15日〜令和2年7月17日)
      当館の人気刊行物、古文書(くずし字)を詳細に、徹底的に読解する本『古文書徹底解釈 紀州の歴史』シリーズの最新刊第七集では、『中筋家文書』から、紀州藩名草郡和佐組(現和歌山市東部)の大庄屋が職務上作成・取得した文書を取り上げています。
  「拙者 出張 でばり候」と題し、村に現れ作物を荒らす猪鹿駆除の際、勘違いした大庄屋が鉄砲打ちに「出張る」話など、村の鉄砲に関する古文書を読んでいきます。
  近年、猪や鹿などの野生動物が人里に出没する事件が頻発してますが、江戸時代にも同様な現象があったことが古文書に記されています。当時の人々は、これをどのような原因によるものと認識し、対応したのでしょうか。
  また、ここに展示している、幕末期に百姓・町人らが取り立てられて組織された農兵の銃隊訓練や、鉄砲の取扱いに関する古文書なども取り上げます。   

文責:藤 隆宏
 
  学校にある「たからもの」 串本古座高校所蔵 中根文庫   (令和2年3月13日〜令和2年5月14日)
     展示しているのは、旧古座町出身の郷土史家であった、中根七郎氏が収集したコレクションです。
  中根氏は、古座町に勤めていた頃、『東牟婁郡誌』編さんに関わったことや河内神社の祭典(河内祭)を見たことから、郷土の歴史に興味を持ったようです。
  以来、郷土資料の収集に努め、約二百点にのぼる文献資料が伝わっています。そのうち半数以上が筆写本です。コピー機のなかった時代、中根氏みずから一字一字書き写して複製品を作ったのでした。
  中根氏の没後、資料は古座高校に寄贈され「中根文庫」と呼ばれるようになりました。串本高校との統合により、現在は串本古座高校で大切に保管されています。
  この二百点の資料のなかには、天災などの理由により、原本が失われてしまったものもあります。しかし、中根氏が作成した複製品のおかげで、その内容を知ることができます。
  当館では、こうした学校や地域で所蔵する貴重な資料を一時借用し、順次デジタル化を実施しています。作成したデジタルデータのうち、公開可能なものについては、当館の「和歌山県歴史資料アーカイブ」で公開する予定です。

文責:砂川 佳子
 
  新収古文書の紹介 巽三郎旧蔵文書のうち「海防図」   (令和2年1月5日〜令和2年3月12日)
     幼い陸奥宗光が父と義兄の失脚によって和歌山城下を追われ、紀ノ川上流域で流転の生活を余儀なくされていた頃(パネル展示参照)は、日本の「鎖国」体制が崩壊し、「開国」へと向かう激動の時代でした。
  嘉永6(1853)年、浦賀(現神奈川県横須賀市)にアメリカの使節ペリーが来航、翌年には下田(現静岡県下田市)と箱館(現北海道函館市)を開港することなどを定めた日米和親条約が結ばれました。ペリー来航の情報は紀州へも伝えられ、多くの人びとが衝撃を受けました。
  嘉永7年の九月から十月には、ロシアの使節プチャーチン率いるディアナ号が紀州に立ち寄り、加太(現和歌山市加太)沖に碇泊しました。このとき、紀州藩は、かねて取り決めていた計画に基づき、約一万人を動員して沿岸警備を行いました。
  展示している「海防図」は、和歌山城周辺に設けられた台場だいば狼煙場のろしばの位置や地勢を示した地図で
す。
  紀州藩は城下周辺を八つの地区に分け、外国船の来航に備える計画を定めていました。取り決められた区割り・担当家臣・配置人数は以下のとおりです。
  大川浦 〜 田倉崎 : 水野丹波守        1,445人
  田倉崎 〜 外浜 : 金森孫右衛門        1,275人
  外浜 〜 雑賀崎 : 岡野平大夫          1,007人
  雑賀崎 〜 和歌浦沖中 : 三浦長門守     1,593人
  和歌浦沖中 〜 和歌浦洲崎 : 久野丹波守  1,267人
  毛見浦 〜 藤白北境 : 加納平次右衛門    1,208人
  藤白北境 〜 塩津浦 : 佐野伊左衛門       930人
  塩津浦 〜 大崎浦観音崎 : 戸田金左衛門  1,112人
  『巽三郎旧蔵文書』は、県史専門委員等を務めた考古学者・故巽三郎氏の遺品のうち古文書約200点を遺族から寄贈いただいたものです。巽氏が収集したもので、「海防図」の外、鎌倉時代の経典をはじめ、さまざまな時代・地域にわたる原出所が異なる古文書が混在しています。現在、番号付け・目録作り・複製物作成などの整理を進めています。

文責:藤 隆宏
 
  徳川家入国四〇〇年記念 南竜神社の古文書 - 『紀州東照宮文書』より -
                                             (令和元年10月19日〜令和元年12月28日)
     元和5年(1619)に紀州徳川家初代藩主頼宣が入国して今年が四〇〇年となるのを記念して、頼宣を神として祀る南竜神社の古文書を御紹介します。
  現在、徳川家康を祭神とする紀州東照宮の西隣に、家康の十男として生まれ、紀州徳川家初代藩主となった頼宣(南龍院)を祀る南竜神社が鎮座しています。
  南竜神社は県内外に数か所ありますが、この南竜神社は、紀州藩がなくなった後、明治期に創建されました。
  明治7年(1874)、元家老三浦権五郎をはじめとする旧紀州藩士たちは、「藩祖」頼宣を祀る神社を設立する運動を始めます。同年中に創建は許可され、翌八年には県社に列せられます。そして、現在の和歌山県職員研修所辺りに建立され、同年12月15日に神宝鎮座の祭典が営まれました。
  南竜神社の創建及び維持は、旧藩士らに出費による享誠舎(社)や、紀州徳川家からの寄進によって
行われました。
  また、旧藩主徳川茂承や旧藩重臣たちは、頼宣ゆかりの品を南竜神社に奉納しました。
  大正6年(1917)、南竜神社は紀州東照宮に合祀されました。頼宣ゆかりの宝物なども、紀州東照宮に引き継がれました。
  また、南竜神社社務所や、享誠社で作成・取得されてきた文書類も、宝物と同様に紀州東照宮に引き継がれていました。そして、紀州東照宮社務所の古文書と一緒、平成24年、『紀州東照宮文書』として、文書館に寄託されました。
  南竜神社・享誠社の文書類は、設立期から合祀される時期までのものが残っており、南竜神社及び明治期の旧紀州藩士ネットワークの歴史を通覧することができる文書群といえます。

文責:藤 隆宏
 
  新収古文書の紹介 栖原角兵衛文書   (令和元年8月9日〜令和元年10月18日)
 
  昭和63年(1988)、神奈川県大磯町のゴミ焼却場で発見された古文書が、同町郷土資料館に持ち込まれました。近年になり、この古文書は、有田郡栖原村(現湯浅町栖原)出身の栖原角兵衛家に関する文書であることが判明し、今年一月、同館から寄贈いただきました。
  栖原角兵衛家は、江戸時代初頭から昭和初期まで12代にわたり房総・奥州・松前・蝦夷地・樺太・千島列島まで進出し、漁業、薪炭・材木商、海運、鉱山など幅広い事業を展開しました。
  栖原角兵衛文書は、江戸深川木場(現東京都江東区)にあった同家の材木問屋に関する幕末から明治初期の新出資料101点です。
  展示している三点は、いずれも同家が貸し出した材木取引の「前金」の借用証文です。  これらによると、栖原家は、前金を貸すことによって、借り手から約束分の材木を仕入れ、自由に売り捌くことができました。
  そして、売上げから諸税や、栖原家の収入となる一定の手数料、前金と利子を差し引き、残金が借り手に支払われることになっていました。難船など万一の事故により売上げが前金を下回った場合には、借り手側に返済義務がある契約でした。
  また、多角経営を行う同家の中で、材木問屋部門は、主人に代わり嘉六など従業員が経営していた様子がうかがえます。
  栖原角兵衛文書を活用することによって、このような材木取引や材木問屋経営の実態が解明されることが期待できます。
  なお、栖原角兵衛文書のほか、同家に関する古文書に、和歌山県立図書館蔵『栖原家文書』があります
 
文責:藤 隆宏
 
  古文書徹底解釈 紀州の歴史 第六集 夜分火を焚き酒食を用い   (令和元年6月14日〜令和元年8月8日)
 
  『古文書徹底解釈 紀州の歴史』シリーズは、紀州の古文書を解読し、また細部の意味や文書が書かれた背景まで徹底的に解説し、読解する本です。
  本書では、収蔵史料目録八「瀬戸家文書目録」から、10点の古文書について詳細な解説を加えています。
  展示している古文書が、本書第7項で「夜分火を焚き酒食を用い」として取り上げた「御調ニ付御答申上候口上」(資料番号し585)です。
  これは、慶応三年(1867)四月、北塩屋浦で起きた、時節をわきまえない酒盛りの「詫び状」です。
  酒の席での「詫び状」というと、飲み過ぎて何か問題が起きたことに対する謝罪のように思われますが、丁寧に語句を読み解き、印鑑の形までじっくりと見ていくことで、ただの「詫び状」ではなかった、ということがわかりました。
  詳しくは、当館で配布している冊子か、ホームページのPDFファイルをダウンロードしてください。

文責:砂川 佳子

 
  再発見!! 田辺藩庁文書   (平成31年4月12日〜令和元年6月13日)
   
  ここに展示している四点の史料は、当館発行の『移管資料目録』において、「紀州藩・和歌山藩庁」と分類し、公開してきました。

  ところが、よく調べてみると、明治元年(1868)に紀州藩から独立した、田辺藩によって作成された帳面であることがわかったのです。

  田辺藩庁文書再発見の経緯と史料の内容について、「文書館だより」54号及び「和歌山県立文書館紀要」21号で紹介しています。

文責: 砂川 佳子
 
  新収古文書の紹介 宮本守中・道夫関係資料   (平成31年2月15日〜平成31年4月11日)
      平成29年11月、宮本守中・道夫父子が取得・収集した資料約190点を、御子孫から寄贈いただきました。
  宮本守中(文久2年(1862)〜大正13年(1924))は、明治・大正期の新宮町(現新宮市)で長く伝染病医療などの医業に携わり、東牟婁郡医師会会頭を務めました。
  一方で、明治29年(1896)に和歌山市以外の県内郡部で初の新聞『熊野新報』を創刊するなど、むしろジャーナリストとして有名です。
  また、新宮町会議員のほか、同38年3月から翌年2月まで同町長も務めています。
  守中の長男である宮本道夫(明治26年(1893)〜昭和46年(1971))も、同町・東牟婁郡七川村(現古座川町)・同郡田原村(現串本町)で父と同様に医院を営み、伝染病医療に尽力しました。
 昭和7年から同11年までは七川村長も務め、同村の経済改善に貢献しました。 
 寄贈いただいた資料の多くは道夫が収集した関東大震災、二・二六事件、戦争に関する新聞やグラフ誌ですが、守中の卒業証書、熊野新報社関係資料、父子への感謝状・表彰状、道夫が匿った共産主義者から取り上げたという同人誌などもあります。

文責:藤 隆宏
 
  新収古文書の紹介 塩冶家文書   (平成30年11月9日〜平成31年2月13日)
      平成30年8月、塩冶家文書(300点以上)の寄託を受けました。

塩冶家文書は、

 @江戸時代の紀州藩士文書

 A明治期に神職を勤めた塩冶建彦の文書

 B建彦の子で、海軍兵学校教官を勤め、地震学者でもあった応太郎まさたろうの教育・研究資料

の3種に大別されます。

 @に該当する文書には、塩冶家の由緒や歴代当主の職務履歴に関する記録の他、幕末の当主長之助(のち長治郎→建彦と改名)が職務上作成・取得したものが多く含まれます。  
 建彦は、文久2年(1862)紀州藩表御用部屋勤めの書記となりますが、翌年以降、「海防方」「軍事方」の書記や応接・交渉役として、将軍徳川家茂いえもち の紀淡海峡巡視や上洛、藩主徳川茂承もちつぐの大坂警備、長州征討、鳥羽・伏見の戦い後の国境警備、奥州追討軍従軍など幕末・維新期の現場で東奔西走します。
 その過程で作成・取得 した海防図や戦場の 地図などの文書を遺しています。
 Aの文書は、建彦が明治7年(1874)から没するまで勤めた神職に関するものです。建彦は日前ひのくま国懸くにかかす 神社主典しゆてんごん禰宜ねぎ、名草郡内各中言なかこと神社の祠掌ししよう竃山かまやま 神社主典等を歴任し、同24年、日前・国懸神社禰宜在職中に病没しました。特に竃山神社主典に就任した同18年は同社が村社から官幣中社となった年であり、関係記録が数点残ります。
 Bの文書は、同30年東京帝国大学 理科大学物理学科を卒業し、黎明期の地震学者として震災予防調査会の水平振子観測方を嘱託されるも、同32年に海軍兵学校の教官となって大正4年(1915)まで勤務し、のち粉河中学校の嘱託教授も勤めた応太郎の関係資料 です。発表した地震学論文などの執筆資料や、教育論をまとめた文章などがあります。
 大変重要かつ興味深い文書群といえます。

文責:藤 隆宏
 
  古文書徹底解釈 紀州の歴史 第五集   (平成30年9月14日〜平成30年11月8日)
   当館の人気刊行物、古文書(くずし字)を詳細に、徹底的に読解する本『古文書徹底解釈 紀州の歴史』(第三集まで品切れ)新刊第五集では、 高野山寺領の古文書(当館寄託岡本家文書)を取り上げています。
 江戸時代、現高野町を中心に現伊都・那賀・海草郡の一部を含む地域は、高野山の領地でした。 石高は2万1千石余で大名並みですが、学侶方がくりよかた(9500石)、行人方ぎょうにんかた(8600石)、聖方ひじりかた(200石)と3系 統の寺院に別れ、各領地を独自に支配していました(その他共同管理地あり。)。
 各々の領地が少なく、かつ分散しており、その上領主が武士ではなく寺院ですから、55万石の大藩紀州藩と比べると統治能力は劣り、システム もルーズで、紀州藩では考えられないことが起こったり、紀州藩や領内の住民から「ナメられ」たりすることもあるのでした。
  『古文書徹底解釈 紀州の歴史』第五集では、その高野山寺領行人方に属する那賀郡神野こうの組福田村(現海草郡紀美野町 福田)の地士岡本家の古文書から、いくつかの事件を取り上げています。これら事件は、行人方役人である寺院から岡本氏が処理を命じられたものですが、そもそも役人(寺院)でない岡本氏が事件の処理を命じられること自体 が、高野山寺領の特徴といえます。
 展示している古文書は、神野組内の津川村(現紀美野町津川)の若者3人が大角おおすみ村(現同町大角)伊作の家に夜まで長居をしているので帰れというと悪態 を付き、更に伊作の家が火事だと叫んだために騒ぎとなった事件の処理を命じられた書状です。伊作は、事件の翌日若者の親元へ出向いて前夜のことを話したが親達は忰を叱るようなこともないので、行人方の本寺興山寺 ほんじこうざんじの役人に対処を求め、それを受けた興山寺役人(自覚院)は岡本氏に解決を命じたのでした。この程度の事件が村の庄屋などではなく、領主筋に直接訴えられること、また、役人がこれを受け て対応するのは、高野山寺領ならではといえるでしょう。興山寺役人は、ここでうまく解決しないと伊作が「表方」(幕府)にまで訴え出かねない、とまで恐れて、何とか穏便に解決するよう岡本氏に命じるのでした。
 『古文書徹底解釈 紀州の歴史』シリーズは、紀州の古文書を解読し、また細部の意味や文書が書かれた背景まで徹底的に解説し、読解する本です。

文責:藤 隆宏
 
 
  お宝を守り抜け!   (平成30年7月14日〜平成30年9月13日)
 
      紀州藩には、茶の湯を仕事とする御数寄屋頭という役がありました。代々御数寄屋頭をつとめた千利休の子孫である表千家は、 ふだん京都にいましたが、紀州藩で勤務する時は、三木町の屋敷に滞在していました。
 当館で所蔵する「和歌山絵図」を見ると、表千家の裏手に「橋本源兵衛」という人の屋敷があります。橋本家の「系譜」 によると、お城近辺でもし火事があったら、御数寄蔵へ行って勤めなさいと命じられています。紀州徳川家では、家康の遺品の「駿府御分物」のほか、茶道具などを蔵に保管していました。「勤め」とは、道具を 避難させるのではなく、土蔵の窓や扉に泥を塗り、隙間を埋めることによって、火が蔵の中へ入らないようにすることでしょう。
 火事はいつ起こるかわかりません。常時、和歌山にいるとは限らない表千家の 代理として、ご近所さんである橋本家に「勤め」が命じられたのかもしれません。
          
文責:砂川 佳子
 
 
  紀州藩と安藤家の『家譜』   (平成30年4月11日〜平成30年7月13日)
         
 
 当館では、紀州藩の家臣たちが新規召し出しや代替わりの際に提出した、「先祖書」・「系譜」・「親類書」を所蔵しています。
  これらを一括して、『紀州家中系譜並に親類書書上げ』、略して『家譜』と呼んでおり、このなかに、付家老安藤家家臣たちの提出した「先祖書」が、103点あることがわかりました。
  展示している古文書は、紀州藩の家臣から、のちに安藤家家臣となった、三倉家の『家譜』です。
  @〜Bまでが田辺与力として紀州藩に提出したもの、Cが安藤家に提出したものです。
  一見すると同じように見えますが、よく見ると紙の大きさや押印の有無など、違いのあることがわかります。開いてみると、紀州藩では血族のつながりを朱線で示すのに対し、安藤家では書かれていません。
  こうした安藤家家臣の「先祖書」について、最新の『和歌山県立文書館紀要』20号で紹介しています。あわせてご覧ください。
            
文責:砂川 佳子
 
 
  龍王神社文書改め小山家文書(美浜町三尾)   (平成30年2月9日〜平成30年4月10日)
 
  ここに展示しているのは、平成29年8月に当館と寄託契約を締結した小山家文書全228点のうちの一部です。
 実は、これらの文書は、以前「龍王神社文書」として当館で整理・公開されてきました。
 昭和20年代に財団法人日本常民文化研究所(当時。以下「常民研」)が行った全国漁村の古文書調査で借り出されたまま未返却の古文書原本が、なぜか当館開館時に和歌山県史編さん班から引き継がれた資料の中に混じっていました。(県史編さん班が保有するに至る経緯は現在も不明です。)
 その中に、「三尾浦龍王宮」と書かれた封筒に入った古文書がありました。当館は、これを小山家と同じ美浜町三尾に所在する龍王神社の古文書と勘違いして、整理・公開してきたわけです。
 近年、現在は神奈川大学に引き継がれている常民研での調査により、これらの古文書が、常民研が昭和26年(1951)7月に借り出し、翌年7月に返却したはずの「小山甚蔵家文書」の一部であることが判明しました。
 そして平成29年、実に66年ぶりに本来の所蔵者(当然代替わりされています。)に古文書が「返却」され、その上で、改めて当館へ寄託されることとなりました。
 小山家は、漁業の盛んであった旧日高郡三尾浦の庄屋を務めた家です。幕末から明治にかけて庄屋・戸長などを務めた甚蔵については、偉人として顕彰碑が建てられています。
 昭和27年に返却された方の小山家文書は、漁業関係記録が充実した庄屋文書として知られています。
 ここにある分は、寺社関係、売買・貸借関係など、漁業とは直接関係しないために常民研で借用後別置され、返し忘れられたものと思われます。
 
 
 現在のケース展示に戻る
 
  消された姫君たち〜「南紀徳川史」原稿より〜   (平成29年11月12日〜平成30年2月7日)
 
  ここに紹介する資料は、明治期に堀内信(ほりのうちまこと)によって編纂された「南紀徳川史」の原稿です。
  巻147(印刷本では第16冊)の「大奥御服図」の中の「御簾中(ごれんじゅう。藩主の正室)様御服」、 「女中髪容(かみがた)」等として収録された部分に相当します。
  よく見ると、彩色が途中までであったり、絵図のまわりに記された説明文に、朱で訂正が入れられているなど、 これらの原稿は推敲途中のものであることがわかります。
  【資料2】では「御元服後 御平日」の御簾中の姿が描かれた隣に、「御姫様方」の装いが描かれています。 左側にある説明では此御風ハ、維新後世上ニ準せられし也  以前者御童形ニ而も御介取、御付帯等被遊しなり (この風(装い)は、維新後の世の中の風俗に倣ったものである。以前は童形であっても御介取(おかいどり。御掻取とも。打掛のこと) に御附帯(おつけおび)などお召しになっていた。)とあり、「維新後」の姫様方の装いであることがわかります。 御召しの振袖や袴には彩色がなされ、ほぼ完成しているように見受けられます。
  ところが右側の中ほどに、此分維新後ニ付可除(この分は、維新後(の姿)であるので除くように) と朱書きされ、この絵を削除するように指示されています。
  堀内信は、江戸時代の紀州徳川家の功績を後世に残すために「南紀徳川史」を編纂しました。
  「御姫様方」の装いを一旦は描いたものの、それは「維新後世上ニ準せられし」姿であることから削除する判断を下したものと考えられます。
  私たちが目にする印刷本の『南紀徳川史』に「御姫様方」の絵図は掲載されていません。
  今となっては、なぜこの4枚だけが堀内家に残ったのか、その理由は知る由もありませんが、 堀内信が「南紀徳川史」全173巻を完成させるにあたって幾度も推敲を重ね、苦心した制作過程を目の当たりにできる貴重な資料です。
文責:松島 由佳
 
 
  新収古文書の紹介 和歌山県営繕技師増田八郎資料   (平成29年9月15日〜11月11日)
 
  平成28年10月、現和歌山県庁舎の設計・監督者を務めた増田八郎関係資料45点を寄贈いただきました。
  増田八郎は、和歌山県庁舎の営繕技師として昭和10年(1935)から同13年にかけて本県に在職しました。 増田は前職で富山県庁の設計・建築に携わっており、今回寄贈された資料には、富山県職員時代に本県から届いた手紙に始まり、 竣工後、同僚との職員旅行を終える昭和13年4月23日までの、県庁舎建築の進捗状況を逐一写した写真のスクラップ帳や、 株式会社大正写真工芸所作成の竣工記念写真帳などがあります。
  和歌山県庁舎建設中の昭和12年(1937)には日中戦争が始まります。戦争は建築業界に大きな影響を与えました。 和歌山県庁舎の建築も、鉄の高騰による鉄鋼資材不足に見舞われたり、 また、出征に伴い労力が不足したりする中で行われたといいます。 建築に関わる物資の多くは値上がり前に調達できていたものの、鉄の搬入が遅れ、竣工が延びた、と増田自身も語っています。
  平成25年(2013)に、本館が国の登録有形文化財に指定されるなど、歴史的建造物としても高い評価を受ける和歌山県庁。 その設計・管理に直接関わった人物の資料は非常に貴重なもので、県庁舎に関する研究が格段に進展することが期待されます。
文責:藤田 彩美
 
 
  古文書徹底解釈 紀州の歴史 第四集   (平成29年7月14日〜9月13日)
 
  品切れ続出の当館の人気シリーズ『古文書徹底解釈 紀州の歴史』は、当館の古文書からいくつかを取り上げ、 用語や語法、当時の制度などについて詳細な解説を加えて徹底的に読解する本です。
  最新作「源太夫、情けを以て申し諭す」は、当館寄託『堀家文書』から、 堀源太夫が紀州藩の「胡乱者改」(うろんものあらため)を勤めた過程で作成・取得した古文書を取り上げます。 従来知られていなかった胡乱者改役の職務内容を、10のエピソードから具体的に明らかにします。

  展示しているのは、この本で取り上げた『堀家文書』の原本です。
  『古文書徹底解釈 紀州の歴史 第四集』に収録したもの以外にも、『堀家文書』には胡乱者改役に関する古文書がたくさんあります。
  『堀家文書』は複製物でご覧いただけますので、ぜひ『古文書徹底解釈 紀州の歴史 第四集』を徹底的に読んだあとは、 『収蔵史料目録九 紀の川市名手市場 堀家文書目録』(青い本)で関連文書をお探しの上、御利用ください。
文責:藤 隆宏
 
 
  女学生のマストアイテム   (平成29年4月12日〜7月12日)
   明治から、大正・昭和戦前期にかけて、高等女学校に通う生徒のことを「女学生」と言いました。
   当館で収蔵する、岩ア家と高橋家に伝来した、当時の女学生のマストアイテム、つまり必需品を通して、 彼女たちの学生生活をご紹介しましょう。
   まずは、@教科書とAノートです。明治32年(1899)「高等女学校ノ学科及其程度ニ関スル規則」によって、 修身、国語、外国語、歴史、地理、数学、理科、家事、裁縫、習字、図画、音楽、体操が必修と定められ、 そのほか教育、漢文、手芸などが加わる場合もありました。
   次は、B通知簿です。これは、いまでいう連絡帳にあたり、通信手段が発達していなかった当時、家庭と学校とのやりとりに用いられました。 通知簿には、「生徒心得」が記されており、現在の生徒手帳のような役割もありました。
   それから、C小使(遣)帳も必須でした。良妻賢母となるためには、金銭管理ができなければなりません。 そのために、学校指導の下、小遣い帳をつけていました。
 
D A @ D C B   こうした女学校で日常的に使うもののほかに、女学生のマストアイテムだったのが、D雑誌です。
  明治後期にあいついで創刊された少女雑誌は、12歳から16歳を中心とする女学生を主な読者に想定していました。 展示している『少女の友』の表紙絵は、和歌山市出身の画家、川端龍子によるものです。
  女学生は雑誌を通じて、流行の読み物や絵画、ファッションなどの情報を得ていました。
  明治後期に女学生であった、岩アかつゑについて、『文書館だより』48号で紹介しています。あわせてご覧ください。

文責:砂川 佳子
 
 
  印定寺いんじようじ墓碑ぼひうつし (高浪溺死霊魂たかなみできしれいこん)(日高郡印南町)   (平成29年2月10日〜4月11日)
   日高郡印南町印南の印定寺境内に、宝永4年(1707)の宝永地震津波の死者170人余を供養するため十三回忌にあたる 享保4年(1719)に建立された「高波溺死霊魂之墓」碑があります。 碑文には、当時の印南浦に到達した津波の高さも記されており、後世の者に具体的な被災状況を伝えてくれています。
 
「津浪之紀事」碑 「高波溺死霊魂之墓」碑 浄土宗印定寺   展示している文書は、その碑文を書き写したもので、同郡藤井村(現御坊市藤田町藤井)の地士で天田組(あまだぐみ)大庄屋を勤めた 瀬戸家に残されていました。同家の者が参考に書き写したものと思われ、防災についての関心の高さを示しています。
  幕末の嘉永7年(1854。安政に改元)、安政地震津波が起こります。8年後の文久2年(1862)、同郡浜ノ瀬(現美浜町浜ノ瀬)に、 安政地震津波での具体的な被災状況と警句を刻んだ「津浪(つなみ)之(の)紀事(きじ)」碑が建てられます。 建立したのは、大庄屋瀬戸家の隣に住む、同じく地士である分家の瀬戸佐一郎です。 佐一郎は、外国船出没等の非常時には「浜ノ瀬固場」へ出動する地士達の小頭でした。
  日高郡の地士や大庄屋たちが、津波防災とその啓発に高い関心を持ち、取り組んでいたことが分かります。
  この文書には写し間違い・写し忘れがあります。「高波溺死霊魂之墓」碑の解読文と現代語訳は 『先人たちが残してくれた「災害の記憶」を未来に伝えるV』4〜5頁に載っていますので、比べてみてください。
  ※「津浪之紀事」碑も『先人たちが残してくれた「災害の記憶」を未来に伝えるT』6〜7頁に載っています。
文責:藤 隆宏
 
 
   当館は、地域に残されている災害の記憶を今後の防災に生かしていくため、 県立博物館、県教育庁文化遺産課、和歌山大学や県外の研究者、 民間団体「歴史資料保全ネット・わかやま」とともに、地域に眠る「災害の記憶」と文化遺産を発掘・共有・継承する事業に取り組んでいます。 『先人たちが残してくれた「災害の記憶」を未来に伝える』シリーズはこの事業の成果として作成されたもので、 和歌山県立博物館のウェブサイトでご覧いただけます。
 
 現在のケース展示に戻る
 
  新収古文書の紹介   苧原おはら家文書(日高川町松瀬)   (平成28年11月11日〜平成29年2月8日)
   平成28年5月、日高郡日高川町松瀬(旧川辺町)に伝えられていた苧原家文書100点余が文書館に寄託されました。
 
  苧原家は、江戸時代に日高郡江川組の杖突(つえつき)(大庄屋を補佐する公職)を勤めていたことで知られています。 『川辺町史』には、天明6年(1786)に同家の大助がしたためた杖突としての出勤状況などが分かる日記など6点の文書が翻刻されています。 しかし、残念ながら、現在この6点の文書は行方不明で、今回寄託分には含まれていません。
  お預かりした古文書には、杖突の職務上作成されたものが1点残るほか、幕末から大正期まで続く同家商売の売掛帳(47冊)、 江戸時代から明治期にかけての浄瑠璃(じょうるり)本(杖突大助は浄瑠璃が大好きだったようです。)、寺子屋教材、教科書、板本などがあります。 また、明治末頃から昭和初期まで家族とともにアメリカ・カリフォルニアで暮らし、 農業を営んだ源太郎が使用したと思われる外国航路の出港表が残っています。
  日高郡農村で杖突を勤めた有力層の経営、趣味など、生活を明らかにする文書群といえそうです。 また、たびたび日高川の水害に襲われる松瀬という地域で残ってきたという意味でも貴重なものです。
  これらの文書については、これから目録作り・複製物作成など、皆様に利用いただくための整理を進めていきます。
文責:藤 隆宏
 
 
  新収古文書の紹介   北大井村御検地帳及び北大井村字限図  (平成28年9月9日〜11月9日)
   ここに展示しているのは、現紀の川市北大井の基本的かつ重要な情報が記録された古文書2点です。平成28年6月に寄託されました。
   慶長5年(1600)、関ヶ原の戦いの後、高野山寺領を除く紀州は、浅野幸長が藩主となり、入国します。 そしてその翌年、領内の検地が行われました。
 
  「那賀郡池田庄之内北大井村御検地帳」は、この時の記録(写し)です。当時の村内の土地ごとに所在地(字名)、 地種・地の位(「上田」「下畠」等)、広さ及び所有者名が記載され、帳面の末尾には戸数なども記されています。
  検地帳は、村の基本資料として、藩主が徳川家に代わっても、どこの村でも大事に保管され、或いは書き継がれていました。
  「字限図」は、明治初年の地租改正に伴って作成された地図で、村内の各字ごとの地図が綴じられています。 各地図には、土地一筆ごとの地番及び地種が記載されています。
  「御検地帳」「字限図」ともに、村内の土地所有・利用に関する根本記録であり、 本来は庄屋など公的な役人を務めた家で保管されていたものと思われます。しかし、今回寄託された方の御先祖が役人であったかは定かでなく、 伝来の経緯は明らかではありません。ただし、寄託者の祖父にあたる方は、これらの文書をとても大事になさっていたそうです。
  今のところ、北大井村について庄屋文書等のまとまった文書群が確認されていないこともあり、 同村の歴史を物語る証拠として非常に貴重なものといえます。当館としても大事に保管し、活用していきたいと思います。
文責:藤 隆宏
 
 
  親様少し高直の由仰せられ候  (平成28年7月13日〜9月7日)
 
  ここに展示している古文書は、紀三井寺村の地士岩ア平四郎宗明による櫨(はぜ)実絞りの商いを記録したものです (櫨実絞りについては第48回パネル展示をご覧ください)。

  史料@には、櫨商売を始めた経緯が記されています。平四郎は浅右衛門と大和屋平吉の2人に助言をもらい、 道具一式を銀640目で購入しました。
  いい買い物をした、と平四郎が喜んだのも束の間、親様からは「少し高値だよ」と厳しい一言。
  出鼻をくじかれた平四郎、その後の商いの様子を綴ったのが、史料Cです。はてさてその内容とは……。

  平四郎の櫨商売とその顛末について、文書館だより46号で紹介します。あわせてご覧ください。

文責:砂川 佳子
 
 
  古文書徹底解釈 紀州の歴史 第三集  (平成28年4月15日〜7月12日)
   当館の古文書講座で取り上げた古文書から厳選した写真を載せ、詳細な解説を加えて読解する本『古文書徹底解釈 紀州の歴史』は、 おかげさまで第一集(開館二十周年記念誌。残部なし)・第二集ともに大変御好評いただいております。
   このたび、「彦次郎、威光を笠に着る」と題した第三集を発行しました。今回は、 紀州藩の役人から廻ってきた触書などを御坊村(現御坊市御坊)の庄屋が書き留めた「御用留」(『県立図書館移管資料』)から古文書を選び、 徹底的に解読・解説しています。
 
  文化3年(1806)の記録から、いずれも藩の役人からの達しである16のエピソードを取り上げていますが、内容は多岐にわたり、 藩役人の変更、家出人の人相書き、博奕(ばくえき)、鳴り物停止(ちょうじ)、秤(はかり)の改め、焼き物の調査、人足の身だしなみ、 ふとんの供出、牛の忘れ物、村役人の握り飯などについてのものです。 表題となった藩の甘蔗(かんしゃ)方役人村井彦次郎からの達しについては、彦次郎の文章の書きぶりから人格までを見通します。
  用語や語法、当時の制度が分かるだけでなく、ときには滑稽でさえある藩士の行動様式、規制を守らなかったり、かいくぐったり、 或いは利用して金を儲けようとする庶民のしたたかさや書き手の性格までが垣間見える、楽しい本です。

  『古文書徹底解釈 紀州の歴史』シリーズは、これらの文書を素材にして、古文書を細部まで徹底的に解説し、読解しています。 そしてそこから、江戸時代の紀州の歴史が分かるようになっています。

文責:藤 隆宏
 
 
  新収古文書の紹介   正法寺しょうぼうじ文書 (那智勝浦町坂足さかあし  (平成28年2月13日〜4月13日)
 
  那智勝浦町坂足は、江戸時代は紀州藩本藩領古座組に属する坂足村といいました。 明治22年(1889)には24戸124人の戸口が確認されますが、現在は過疎化が進み、3戸5人まで減ってしまいました(平成28年1月1日現在)。 正法寺(臨済宗妙心寺派)は、長年坂足の人びとにまもられてきた御寺でしたが、近年廃寺となりました。

  平成27年3月、同寺に残されていた江戸時代後期の坂足村庄屋文書約30点及び昭和初期から平成初年にかけての坂足区の文書約20点が、 当館に寄贈されました。

  庄屋文書の中には、隣村である新宮領色川組田垣内(たのがいと)村(現同町田垣内)との山論関係文書なども含まれますが、 ほとんどが虫損甚大のため、修復しなければ開いて読むことができません。しかし、かつては村であった坂足地区の存在の証となるものとして保存していきます。
文責:藤 隆宏
 
 
 現在のケース展示に戻る
 
  新収古文書の紹介   宇佐美系譜  (平成27年11月13日〜平成28年2月11日)
   江戸時代の紀州藩軍学者宇佐美家の系図2冊が売られているのを、かつて当館に勤めていた方が発見して購入し、 平成27年4月、当館へ御寄贈くださいました。
   展示している系図の見返し(表紙裏)の模様や字の書き癖、もう1冊の系図の記載内容などから、 この『宇佐美系譜』は、既に当館に寄託されている『軍学者宇佐美定祐文書』と同じ家で作成されたものに間違いないと思われます。 つまり、『宇佐美系譜』と『軍学者宇佐美定祐文書』は、元は一緒にあったもので、少なくとも半世紀以上の時を経て、いま、当館で再会したわけです。
 
  今日の研究では、紀州藩軍学者宇佐美家は、戦国大名越後上杉家の軍師など先祖の由緒をねつ造して仕官した家として広く知られています。 『軍学者宇佐美定祐文書』は、152点のうち実に4分の3が宇佐美定祐(大関佐助)のつくった偽文書(ぎもんじょ)です。 展示している系図も、定祐が作成したものと思われます。
  『軍学者宇佐美定祐文書』の偽文書群が同家の(ねつ造された)由緒に関する個々の軍功エピソードの証拠になるものだとすると、 この『宇佐美系譜』は、その「本編=ストーリー」に当たります。
  したがって、今回の『宇佐美系譜』の寄贈により、『軍学者宇佐美定祐文書』にある各エピソードの「点」と、 『宇佐美系譜』のストーリーという「線」が繋がったと言うこともできるでしょう。 そしてこの「点」と「線」は、定祐が名を偽って著した軍記本『北越軍記』と『東国太平記』の内容と対応しており、 両書により同家の由緒が事実であるかのように補強されているのです。
  こうして、『軍学者宇佐美定祐文書』に『宇佐美系譜』が加わったことによって、宇佐美家についての研究が更に発展し、 そこから、紀州藩の家臣団編制過程などがより明らかになることが期待されます。
文責:藤 隆宏
 
 
  新収古文書の紹介   中松家文書  (平成27年9月11日〜11月11日)
   平成27年6月、旧紀州藩田辺領家臣であった中松家に伝わっていた文書約15点の寄託を受けました。
   元和5年(1619)に徳川家康の十男頼宣が紀州藩主になると、田辺城下町周辺地域(現田辺市のうち旧田辺市及び旧中辺路町・大塔村の一部、 現みなべ町、現上富田町、現印南町・白浜町の一部)など石高3万8千8百石は、かつて幕府老中を務め、 頼宣を補佐するために紀州藩家臣となった「付家老(つけがろう)」安藤直次が領主となりました。田辺領は、 同じく付家老の水野家が領主となった新宮領(3万5千石)とともに、紀州藩でありながら安藤家による半ば独立した統治が行われ、明治まで続きました。
 
  「先祖書」によると、中松家は、中松圓左衛門の息子圓兵衛(はじめ圓之助)が経済官僚として頭角を現し、 文化10年(1813)に分家独立が認められたのを初代とします。
  三代目源吾は軍人として活躍し、文久3年(1863)に大和国で起きた「天誅組の変」の際には、警備のため秋津川村(現田辺市秋津川)に派遣されました。
  「秋津川村天誅組詰中日記」は、秋津川詰場で8月29日から10月2日までの間に書かれた日記です。 緊迫する前線の様子や、本藩領や新宮領も含む他の詰場や村々、田辺の役所などとの連絡・応援の有り様が分かる大変貴重な記録で、 『田辺市史 第8巻』に翻刻されています。
  このように、中松家文書は、田辺領家臣の取立てや出世の有り様・事変への現場での具体的な対応が分かる興味深い文書群です。

  これらの文書については、これから番号付け・目録作り・複製物作成など、皆様にご利用いただくための整理を進めていきます。

文責:藤 隆宏
 
 
  明治時代の旭橋  (平成27年7月8日〜9月9日)
   和歌山市紀三井寺の岩ア家文書から、明治時代の旭橋についてご紹介します。
 
明治時代の旭橋   写真1・2は、明治42年(1909)4月に撮影された、初代の旭橋です。 江戸時代の和歌川河口付近には橋がなく、渡し船によって人や物資が運ばれていました(通称ふんどしの渡)。
  明治時代になると、人力車の登場や近代産業の発展により、交通や輸送量が増加したことから、 和歌浦町や紀三井寺村の名士を中心に「和歌川架橋組合」が設立され、橋の建設が計画されます。 写真3は、「和歌川架橋組合」の主要な組合員だったと思われますが、記録が残っていないため、人物の特定ができていません。
  さて、組合では橋の建築にかかる材料や人夫を算出した文書「海草郡和歌紀三井寺間和歌川架橋設計書」 (資料番号U-1303、展示しているものは原本の写し)を作成し、時の和歌山県知事小倉久に提出、橋の建設を認可されました。 架橋の条件として、工事期間や費用・修繕のほか、通行銭についても規定されています。 初代の旭橋は私設であったため、通行には料金が必要でした。
  完成から8年後の明治40年(1907)には、通行量が22万8千人もありましたが、明治42年、 市電の開通にともなって和歌山県による二代目旭橋が開通し、初代の旭橋はその役割を終えました。
  和歌川と旭橋については、「文書館だより」43号で詳しく紹介します。
文責:砂川 佳子
 
 
  古文書徹底解釈 紀州の歴史 第二集  (平成27年4月9日〜7月7日)
   当館では、平成25年度に引き続き、『古文書徹底解釈 紀州の歴史 第二集』を刊行しました。 今回は、紀州藩の文書「願達留」(ねがいたっしどめ)を取り上げ、藩士の縁組や寺社での興行の仕方などについて、前回同様、解読しながら徹底的に解説しています。 その中から、離縁した藩士と元妻との復縁に関する古文書を紹介します。
 
紀州の歴史 第二集    紀州藩士は、自身の結婚や離婚についてであってさえ、藩に願い出て、許可を得なければなりませんでした。
  万延元年(1860)、藩士夏目三郎大夫は離縁していた元妻との再縁(復縁)願いを藩に提出します。 その理由は、2人の間にできた娘が「朝暮(ちょうぼ)母を慕い」、復縁を望み続けているからだというのです。
  一見、まさに「子は鎹(かすがい)」になって、離縁した父母が元の鞘に収まる、泣かせるエピソードに見えますが、どうやら実際にそんなドラマはなく、 復縁願いの「雛形」のとおりに書かれているだけのようなのです。
  『古文書徹底解釈 紀州の歴史』シリーズは、これらの文書を素材にして、古文書を細部まで解読しながら徹底的に解説し、 江戸時代の紀州の歴史がわかるようになっています。どうぞご覧ください。

文責:藤 隆宏
 
 
  新収古文書の紹介・瀧井家文書(橋本市清水)  (平成27年2月13日〜4月8日)
   高野山北麓の橋本市清水は、江戸時代には高野山寺領の伊都郡相賀荘清水村でした。
   かつてこの村に所在した瀧井家は、高野山から地士という格を与えられた家で、幕末から明治初年にかけて、 寺領の警察業務などを担当する制道方〔せいどうかた〕役人・胡乱改〔うろんあらため〕や、村の庄屋・戸長などを務めていました。 また、朝廷側の軍隊として寺領内の地士らで結成された「高野隊」にも参加しています。
 
ケース内写真1   ここに展示しているのは、瀧井家に伝えられていた文書で、@は「制道方」の務めに際して作成されたもの、 Aは高野隊に所属していた同家の瀧井長一郎が依願除隊を認められたときの文書です。
  瀧井家文書約630点は、平成26年2月及び12月に当館に寄贈されました。今回展示した「公務」に関する文書のほか、 同家の経営(商業を営んでいたようですが、今のところ詳しいことは分かりません。)に関わるものや、親戚で高野隊長を務めた相賀久茂の書簡などもあります。

  これらの文書の整理はこれから進めていきますが、仮目録により原本の閲覧が可能です。
  瀧井家文書の概要については、『文書館だより』第40号を御参照ください。

文責:藤 隆宏
 
 
 現在のケース展示に戻る
 
  和歌山徳義社とくぎしゃと和歌浦東照宮  (平成26年12月12日〜平成27年2月11日)
 
ケース内写真1   和歌山徳義社は生活に困窮する旧和歌山藩士族への救助を目的に創設された義田結社です。
  明治10年(1877)3月、墓参のため来県した旧藩主徳川茂承〔もちつぐ〕は、旧藩士族の独居老人や重病のため働けない生活困窮者を救済し、 また人財を養成するため、資本金として10万円を下賜しました。これにより旧藩士らは、徳義社を創設し、耕作地を買入れ、 旧和歌山藩士族結社の義田とし、小作経営の利得をもって、生活困窮者の救助と、子弟の養育をおこないました。
  同年10月、義田結社設立に際して名称を、徳川氏の出資によることから「和歌山徳義社」と称することとし、9番丁1番地に仮会所を設けました。
  また、「松阪(三重県)は旧和歌山藩に属し、同地居住の士族は均しく徳義社の恩恵に浴すべきもの」として明治11年(1878)7月に三重県庁へ出願し、 下賜金10万円のうち4,214円71銭3厘を資金として分割し殿町(現松阪市)に松阪分社を開設しました。
   資料Aは、和歌浦東照宮の神器を徳義社が預る事になったときの資料です。
   東照宮では明治15年(1882)8月と翌年2月の二度にわたり神庫から、宝物が盗まれるという事件がありました。 同宮ではこの対策として、より安全に宝物を保管するため神庫を改修することとし、その期間の宝物の預け先として、 旧藩主徳川茂承の下賜金によって創設された徳義社に宝物を預かってほしい旨、照会しています。
   徳義社では当初、神庫の修繕期間中、宝物を預る予定でしたが、改修工事の遅れのためか意外にも長期間預ることになってしまったことから、 明治22年(1889)1月に神器の監守として専属の警備員を1名増員して警備にあたっています。
   宝物がいつ東照宮にもどったのかはわかりませんが、明治40年(1907)3月に警備員の給料が増給されていることから、 少なくともこの頃まで、保管されていたと考えられます。
   徳義社では明治21年1月13日、当時西汀丁にあった県庁舎が火災になった際、藩庁資料を緊急的に受け入れ、その後も保管していましたが、 大正8年(1919)に同社が解散し、保管していた藩庁資料は和歌浦の双青寮に引き取られました。
   しかし昭和12年(1937)11月、双青寮が銀行所有となり、行き場をなくした藩庁資料を引き取ったのが和歌浦東照宮だったのです。
   東照宮が藩庁資料を引き受けた背景には、もちろん徳川家の家臣の資料であるということもありますが、 以前に徳義社に宝物を預ってもらった経緯があったこともその理由のひとつに挙げられるのではないでしょうか。
文責:松島 由佳
 
  免許皆伝  (平成26年10月8日〜12月10日)
   紀州藩には御数寄屋頭という茶の湯を仕事とする役があり、(表)千家のほか、中野・室・川合・千賀の五家がありました。
   表千家九代了々斎が、文政8年(1825)に没すると、甥の達蔵が十代吸江斎となって跡を継ぎます。 そのとき、吸江斎は紀州藩の記録によるとわずか10歳。茶の湯の家元としても、紀州藩士としても未熟な吸江斎を支えたのが、御数寄屋頭の人々でした。
 
ケース内写真1   文政9年(1826)2月16日、住山揚甫から室宗かん(土へん+監)へ「千家流儀之伝様事」が「皆伝」されました。いわゆる免許皆伝です。
  藩からすれば、誰から皆伝を受けようと役がつとまれば関係のない話ではありますが、本来ならば家元である吸江斎が伝授しなければなりません。 しかし、この時吸江斎自身は先代了々斎から免許皆伝を受けていませんでした。
  そのため、「大坂浪人住山揚甫江被仰付候」、大坂在住の浪人で了々斎から皆伝を受けていた住山揚甫へ仰せ付けられ、 家元ではない揚甫から宗かんへと伝授されることとなり、宗かんの父友甫がその席に立合いました。 この命令をくだしたのは、「数寄の殿様」といわれた十代藩主治宝と推定されます。
  こうした特殊な事情があったことから、点前の皆伝が「系譜」に記録されたのでしょう。
  同年5月、住山家は「千宗左家業取立」のため紀州藩に召し抱えられ、御数寄屋頭をつとめる家は六家となりました。
文責:砂川 佳子
 
 
  『古文書徹底解釈 紀州の歴史』より「偽一九と書物屋喜一郎」  (平成26年8月15日〜10月7日)
   当館では、『古文書徹底解釈 紀州の歴史』を刊行しました。その中から、「偽一九と書物屋喜一郎」に関する古文書を紹介します。
   ここに展示しているのは、幕末の城下町和歌山で書物屋(書店)を営んでいた坂本屋喜一郎が書いた文書です。 いずれも、喜一郎が買い物ガイド『和歌山買物独案内』の出版を企画していたことに関するものです。
 
  @は、天保5年(1834)と翌年に藩町奉行所へ提出した出版願いの控えです。これによると、天保6年、 前年に出版願いを出しながらも許可を得られなかった喜一郎の所へ、有名な江戸の戯作者十返舎一九が現れ、 一九も喜一郎と同様に『和歌山買物独案内』の企画を進め、江戸では既に出版許可を得たというのです。
  十返舎一九は、『東海道中膝栗毛』など数多くのベストセラーを出した超人気作家でしたが、実は天保2年に没していました。 ですから、喜一郎の前に現れた「一九と申候者」とは、ニセモノに違いありません。 しかし、喜一郎はそれに気付かず、大慌てに慌てて、地元の者である自分に出版許可を出すよう藩に願い出ていたわけです。 喜一郎の二度の請願にもかかわらず、出版許可は出ませんでした。
  天保15年、喜一郎は弟の大二郎とともに、三たび出版を願い出ました(文書A)。このときの願いには、出版見本が添付されています(文書B)。 しかしながら、結局、『和歌山買物独案内』が出版されることはありませんでした。
文責:藤 隆宏
 
 
  『古文書徹底解釈 紀州の歴史』より「つるの嫁入り」  (平成26年5月9日〜8月13日)
 
  当館では、『古文書徹底解釈 紀州の歴史』を刊行しました。その中から、「つるの嫁入り」に関する古文書を紹介します。

  この文書は、天保8年(1837)正月に海士郡塩津浦(現海南市下津町塩津)伊右衛門家の娘つるが、 近くの梅田村(現同市同町梅田)武兵衛家に嫁入りした際の送籍状(送り一札)です。
(中尾家文書資料番号15)

  このように『古文書徹底解釈 紀州の歴史』では、古文書を細部まで徹底的に解説し、読解しながら、 つるの人生を追いかけました。一人の女性のささやかな人生を通して、江戸時代の紀州の歴史が分かります。

文責:藤 隆宏
 
 
  和歌山県指定文化財「岡本家文書」のうち、「万代よろずよ日並記ひなみき  (平成26年3月14日〜平成26年5月6日)
 
  現海草郡紀美野町福田は、江戸時代は高野山寺領の那賀郡神野(こうの)組福田村でした。
  岡本家は、高野山から地士という格を与えられ、福田村の庄屋や触頭を務めた家で、 江戸時代から昭和初年にかけての約4,000点の古文書を今に伝えています。 (そのうち930点は和歌山県指定文化財です。)岡本家文書は、一部のものを除き、当館で複製物による閲覧・複写が可能です。
  同家文書には、「万代日並記」と名付けられた、天明6年(1786)から文久3年(1863)までの77年間、3代にわたって書き継がれた日記があります。
  毎日の天気や、その日誰が何をしたのかを中心に、同家や村の行事、高野山や近隣の人々とのやりとりなどが公私にわたって書かれています。 また、弘化3年(1846)の落雷による和歌山城焼失、安政の大地震(1854)や、文久3年の天誅組の乱などの大事件についての記載もあります。
  このほか、同家が発端となった安永5年(1776)の一揆や、高野山寺領内の地士・帯刀人らで組織された「高野隊」に関する記録などがあります。
  『紀美野町福田 岡本家文書目録』(収蔵史料目録13)は、平成26年3月に刊行されました。
文責:藤 隆宏
 
 現在のケース展示に戻る
 
  新収古文書の紹介・遊佐家文書  (平成26年1月15日〜3月12日)
 
  平成25年10月、遊佐家文書約150点の寄託を受けました。
  寛永13年(1636)、戦国時代の有名な河内国守護代遊佐河内守長教・信教親子の直系の子孫であるとして、遊佐彦左衛門長正は紀州藩に召し抱えられます。 以後、代々藩士として明治まで続きますが、同家が長教・信教直系というのはウソのようです。
  @の文書は、明和元年(1764)までに遊佐正敬がまとめた先祖の系譜です。河内国守護であった信教が殺され、 子の高教は遁れた経緯などが書かれていますが、これは天文20年(1551)に暗殺された長教の話と混同されているようです。 また、長教・信教とも河内守護代であり、守護ではありません。
  紀州藩は、藩士に系譜・親類書を提出させました。Aの文書は、寛政8年(1796)に遊佐家から藩へ最初に提出された由緒書です。 @を基にして作成されたものと思われ、信教が守護であること、殺されたこと、その後に織田信長の治世になったことなどが書かれています。 信教は信長と戦っているはずですから、明らかにおかしい内容です。
  その後、間違い?に気付いたのでしょう。藩から問い糾されたかも知れません。以後、藩に提出された系譜では、 Bの文書のように、信教が守護であったとの記載は消え、死因は「病死」となっています。
   このように、遊佐家文書は、由緒のねつ造・修正の過程が分かる興味深い文書群です。 そのほかにも、「長保寺見廻り役」などの職務や明治期の惣領保が社司を務めた紀州東照宮に関する記録などがあります。
   遊佐家文書については、現在マイクロフィルム撮影及び複製物作成を行っています。 この展示が終わると、これらの文書は、同家に伝わった刀・脇差し、茶道具、神主装束、和歌祭の祭礼具などとともに県立博物館に寄贈される予定です。
文責:藤 隆宏
 
 
  新収古文書の紹介・孟子もうこ区有文書【海南市孟子】  (平成25年11月19日〜平成26年1月13日)
   ここに展示しているのは、平成25年4月に寄託された孟子区有文書の一部です。
   現在の海南市孟子は、明治22年(1889)まで那賀郡孟子村として、同年からは北野上村の大字(おおあざ)、 昭和30年(1955)からは海南市の大字として続く地域です。
   孟子区有文書は、度重なる自然災害や戦争、市町村合併を乗り越えて伝えられた約200点の文書群で、 特に明治40年(1907)頃から現代に至る大字(区)の運営に関する記録がまとまって残っており、たいへん貴重です。 これらの文書について、これから番号付け・目録作り・複製物作成など、皆様に利用いただくための整理を進めていきます。
   今回は、その中から「土竜」に関する文書を展示しました。
 
  「土竜」は、現在は「もぐら」と呼ぶのが普通でしょうが、孟子では、昭和30年代まで「おごろ」と呼ばれることが多かったようです。 また、明治40年から42年までは「むぐらもち」と記録された文書もあります。
  土竜はトンネルを掘って畑を荒らすので、その駆除を奨励するため、大字が買い取っていました。 文書@のように、大字の会議で買取価格を決定しています。土竜のほかにも、雀と卵も買い取っていたことが分かります。
  文書Aは昭和4年の帳面ですが、この年、土竜と雀のほか、烏(からす)とその卵も買い取られています。 この前年、昭和3年の会議で、烏を1羽50銭で買い取ることが決定されていたのです。ところが、支出が急激に増えたためか、烏の買取りは2年で廃止されました。 大正8年(1919)から始まっていた雀の買取りも、昭和13年に廃止されています。
  一方、土竜の買取りは続いていきます。文書Bは、昭和26年から30年までの土竜捕獲に関する帳面です。 土竜の買取りは、遅くとも明治40年には始まり、昭和44年の会議で廃止されるまで続きました。これだけの長期間、土竜との戦いは大字全体の問題だったのです。 現在も、個々の農家と土竜との戦いは続いていることでしょう。
文責:藤 隆宏
 
 
  新収古文書の紹介・谷井やつい家文書  (平成25年9月13日〜11月17日)
 
  ここに展示しているのは、明治12年(1879)に谷井勘蔵が県会議員及び海部郡関戸村会議員に当選したときの文書です。
  この年、和歌山県最初の県会議員選挙が行われ、海部郡(定数4名)では、谷井勘蔵は601票を得て当選します。 しかし、勘蔵は、肺病及び「劣才愚昧ノ性質」を理由に辞退します。当時の選挙は立候補制ではなく、本人が望まないのに当選してしまうこともありました。
  それから5ヶ月後、今度は地元関戸村で最初の村会議員選挙に当選します。 このときは勘蔵は辞退することなく「御請(おうけ)」し、以後連続当選していきます。

  谷井家文書は、平成25年3月及び8月に当館に寄贈された約1,500点の文書です。 同家の地主経営に関わるもの、勘蔵と財界人との書簡が多いようですが、点数が多いため、全体像の把握は今後の整理の進展を待たねばなりません。
  これらの文書については、これから番号付け・目録作り・複製物作成など、皆様に利用いただくための整理を進めていきます。

文責:藤 隆宏
 
 
  新収古文書の紹介・中村家文書  (平成25年7月12日〜9月11日)
   ここに展示しているのは、平成24年に当館に寄贈された中村家文書のうち、段ボール箱一箱分です。
 
  中村家は、戦国期に本願寺方に加勢して織田方の軍と対決するなど、古くから知られた家で、 江戸期に入ると漁業(網元)などの家業を営む傍ら本脇浦(現和歌山市本脇)の庄屋などを勤めました。 また、安政6年(1859)生まれの中村健一郎は、 明治15年(1882)頃から17年まで本脇浦・磯脇浦(現同市磯の浦)・日野村(現同市日野)三ヶ村戸長役場の戸長を勤め、 同22年、上記三ヶ村と西ノ庄村(現同市西庄)が合併して成立した西脇野村の初代村長に就任し、大正13年(1924)に没するまで勤めました。
  同家文書は、木箱やブリキの箱などに収納されたものもありますが、全部で段ボールに換算して約50箱あります。
  健一郎が戸長や村長、またその前後に筆生(戸長役場の職員で、 戸長の代理を務めることもありました)を勤めた明治・大正期の戸長役場文書・村役場文書が多くを占めます。また、江戸期の庄屋文書も若干残っています。
  これらの文書については、これから番号付け・目録作り・複製物作成など、皆様に利用いただくための整理を進めていきます。
文責:藤 隆宏
 
 
  忠造ちゅうぞうのホンネ  (平成25年3月1日〜7月10日)
 
  書状は岡本忠造がのちに義父となる、岡本兵馬に宛てたものです。

  神野組福田村(現紀美野町)の岡本家をはじめ、高野山行人領(ぎょうにんりょう)在住の地士(じし)らは、 幕末に「高野隊」を結成し、仁和寺宮(にんなじのみや)嘉彰(よしあき)親王(のち小松宮彰仁(あきひと)親王)に随って北越方面の戊辰戦争に参加しました。
  戊辰戦争後、高野隊は兵部省(ひょうぶしょう)へ組み込まれることとなり、 その際、岡本家から忠造が入隊、御親兵(明治政府直属の軍隊で、天皇や御所の警備にあたった。のちの近衛兵)の一員となりました。
  京都にあった兵部省から、様子を知らせているのが、この2通の書状です。

  高野隊については『文書館だより』第36号で紹介します。あわせてご覧ください。

文責:砂川 佳子
 
 
 現在のケース展示に戻る
 
  お年玉はいくら?  (平成24年12月1日〜平成25年2月28日)
   現在、目録化に向けて整理作業をおこなっている岡本家文書(現紀美野町)のなかから、 ちょうど200年前の文化10年(1813)に書かれた日記、「万代日並記(よろずよひなみき)」のお正月の記事をご紹介します。
   今の私たちは「お年玉」と聞けば、「大人が子供に与える金銭」と考えますが、江戸時代の年玉は品物を贈答することが多かったようです。 現在のような習慣が一般的になったのは、近代以降といわれています。
   では、江戸時代の年玉とは、いったいどんなものだったのでしょうか。
   元日にやりとりされた贈答品をまとめたのが左上の表です。酒屋と由良、というのが岡本家とどういう関係の家だったのかがよくわかりませんが、 互いに鏡餅をやりとりしていることから、親密な間柄だったと想像されます。 それ以外の人々へは紙類が多く、他に扇子や氷豆腐(今の高野豆腐)・そうめんがありました。神宮寺へは銭も贈っています。賽銭か祈祷料でしょう。
   そして、新次郎と幸左衛門と宮への3人(3人とも成人)へは銀2匁が与えられていますが、 この銀2匁というのは現在の価値になおすといくらになるのでしょうか。
 
  米価と大工の賃金から換算してみました。米価は全国の平均と大差ありませんが、文化文政期の大工の賃金は高くて5〜6匁、 地方の見習いでも2〜3匁といわれているので、岡本家で雇われていた大工の賃金は相当安かったようです。( 解説を読む)。
  このように1,180円と2万1,600円という計算結果が出ました。 米から換算した金額は「現在価値」、大工の賃金から換算した金額は「現代感覚」に近い、といわれています。 ちなみに、2012年のお年玉の平均額は2万1,028円だったそうです。現代の金銭感覚と近いように感じますが、 当時の物価や景況は現在と同じではないことをご了解いただき、参考にしていただければ幸いです。

文責:砂川 佳子
 
 
  紀州藩校学習館督学山本楽所の不思議  (平成24年9月16日〜11月30日)
   寛政3(1791)年に第十代藩主治宝によって創建された、藩校学習館の初代の督学(学長)は、山本(為之進惟恭)東籬です。
   そして二代目となるのが山本(源五郎惟孝)楽所です。学習館の督学は、一度命ぜられたら本人が死亡するか、 隠居願いを出してそれが受理されるかのいずれかでなければ、生涯勤め上げるのが基本であったようです。
   ところが、山本(源五郎惟孝)楽所は、 養子の守蔵が書き上げたこの系譜(資料番号14883)の中で不思議としか思えない経験をしたことが書かれています。 それが中央に展示しております、文化8年7月3日の「思(おぼし)召(めし)之品(しな)有之(これある)ニ付」という理由による突然の罷免なのです。 今のところこの「思召」の内容はよく分からないのですが、彼の経歴を見てみますと、天明8年(1788)6月、 「学問宜(よろしく)仕(つかまつり)候付被召出(めしいだされ)」て物読(ものよみ)同様を仰せ付かり、寛政3年2月に儒者同様、翌4年儒者、 同12年(1800)11月学校取締方、文化4年(1807)2月に学習館督学を命ぜられています。 また同月「御(ご)前(ぜん)并(ならびに)学校御用無(これ)之(なき)節(せつ)ハ折々政府江罷出(まかりいで)可申談旨」を仰せ付かっています。 このことは藩政の枢要に入ったことを意味するものでもあります。ところが僅か5年足らずでの罷免です。この背景には何かがあった筈なのです。
 
  ところで、彼の後を受けて督学となるのが、伊藤(海蔵弘朝)海嶠ですが、一般的には次期督学が決まるまでには、 約2ヶ月位のブランクがあるにもかかわらず、文化8年7月3日の山本楽所の突然の罷免から、この時は僅か1週間余りの同年7月11日から伊藤海嶠 が勤めています。そして海嶠は文政元年(1818)4月、56歳で病死するまで勤めています。
  その1ヶ月余り後に、山本楽所がまた督学に再任されます。これではまるで伊藤海嶠を督学にするための「思召」であったように思えますが、 先にも述べたように、その真相を示す史料が見つかっていないのです。
  そして、山本楽所は今度は天保12年(1841)正月に78歳で病死するまで約24年の間、督学を勤め上げています。罷免の理由は何だったのでしょうね。

文責:須山 高明
 
 
  「高野山騒動後日譚」  (平成23年12月2日〜平成24年9月15日)
 
  岡本家は室町時代に、神野庄福田村(現紀美野町)へ住むようになったと伝えられています。 戦乱の世が過ぎると、農業に従事するかたわら、地士として庄屋役や近隣での争論の仲裁にもあたっていたようです。

  岡本家文書は県の文化財に指定されており、既に「和歌山県史 近世史料四」でいくつか翻刻されていますが、 今回展示している古文書は、安永5年(1776)に起こった高野騒動と直接関わる数少ない史料です。

文責:砂川 佳子
 
 
  「親類書」からわかること  (平成23年7月12日〜12月1日)
   紀州家中系譜並に親類書書上げ(上)の刊行を記念して、親類書の一部とその解説を展示しています。
   紀州藩の御数寄屋頭であった表千家の啐啄斎(そったくさい)が寛政8年(1796)に提出した(当館資料番号7566、 以下「啐啄斎本」とする)「先祖書 親類書」、了々斎(りょうりょうさい)(同7567、 「了々斎本」とする)が文化元年(1804)に提出した「先祖書 親類書」から、「親類書」の部分に注目し、了々斎とその弟・妹について追跡してみましょう。
 
   「啐啄斎本」から、了々斎と弟・妹が千家で養われていたことがわかります( 翻刻を見る)。了々斎が千家の養子であったことは既に認められていますが、 その弟・妹も養われていたことや、のちの久田宗也(ひさだそうや)が与七郎と名乗っていたことは、これまで知られていませんでした。
   次の「了々斎本」では、了々斎が宗左を継いだとき、弟・妹が久田姓になっています( 翻刻を見る)。了々斎らはもともと久田宗渓(ひさだそうけい)という人の子供でした。 兄が千家を継承し、充分成長した弟と妹は自分の家に戻ったようです。特に弟の久田宗也は皓々斎(こうこうさい)と号し、兄の茶の湯を支える立場となりました。
  ここまでの経緯を、了々斎の門人であった草間直方(くさまなおかた)という人物が、書き残しているので見てみましょう。
 
      啐啄斎引受世話被致長男宗禎ヲ養子ニセラレ
      二男宗與ヲ以テ家相続致サセ
         草間直方 『茶器名物図彙』上巻 文彩社 1976年
 
  <訳文>  啐啄斎は宗渓の子供たちを引受、世話したのち、長男宗禎(了々斎)を養子にして千家の跡継ぎとし、 二男の宗與(久田宗也)に久田家を相続させた
 
  とあり、「親類書」の記述と合致していることがわかります。
以上のように「親類書」からは、「先祖書」や「系譜」にあらわれない人物の動向や、血縁関係を知ることができます。
文責:砂川 佳子
 
 
  「氏神の遷宮」  (平成23年4月19日〜7月11日)
   一定の年月を定めて定期的に行われる遷宮。人々が共同で祀る氏神の遷宮は、地域にとって大切な神事です。
   その遷宮関係資料を年代順に掲載しました。
 
天保4年 文化10年 寛政5年 安永2年
               宝永8年              享保16年               宝暦3年
                 (1711)                 (1731)                  (1753)
        天保4年       文化10年       寛政5年       安永2年
         (1833)           (1813)          (1793)          (1773)
 
宝暦3年高野山からの申し渡し覚
宝暦3年(1753) 高野山からの申し渡し覚
 
   神社では、一定の年数を定めて定期的に社殿を造り替える、式年遷宮の慣行があります。 工事前に仮の社殿に神霊を移す外(下)遷宮と、社殿完成後に仮の社殿から新しい社殿に神霊を移す正遷宮(上遷宮)が行われます。 20年ごと(現在は21年ごと)の遷宮を行ってきた、伊勢神宮の例が有名です。村の氏神でも、伊勢神宮の例にならって20年ごとに遷宮を行うことが多いのです。
   紀の川市荒見の氏神九頭神社でも、遷宮関係資料を年代順に並べると、20年ごとに遷宮が行われていた事が分かります。
   九頭神社では宝永8年(1711)と、その20年後の享保16年(1731)に遷宮がありました。次の遷宮は宝暦元年(1751)のはずでしたが、 遷宮の寄合に関して争論になり、この年に遷宮が行えませんでした。宝暦3年(1753)になって、高野山の裁きにより争論が解決し、遷宮が行われました。 これ以降、20年ごとの遷宮が続きました。
 文責:伊藤 信明
 
 
 現在のケース展示に戻る
 
  「明治の離縁状りえんじょう  (平成22年11月30日〜平成23年4月17日)
   江戸時代の離婚は、離縁状(三くだり半とも呼ばれていました)を、男性側(夫)が差し出し、女性側(妻)が受け取ることが必要でした。 離縁状を出さなかった男性、離縁状を受け取らなかった女性ともに、処罰の対象となりました。
 
高橋家文書−1456「暇状壱札之事」 高橋家文書−1456 2/2 妻からの手紙
「暇状壱札之事」  高橋家文書−1456 妻からの手紙  高橋家文書-1456 2/2
 
   この離縁状は、明治時代に書かれたことに加えて、当事者である妻の手紙が一緒に残されているので、さらに興味を引きます。 妻はたどたどしい筆跡で、次の4つのことを書き記しています。
      ・昨日届いた手紙へのお礼
      ・親の側にいたので返事ができなかったこと
      ・こちらの方は片付いたので安心してほしいこと
      ・親が何と言っても、あなたと付き添う気持ちでいること
   この手紙を読むかぎりでは、妻はまだ別れるつもりは無いのですが、夫と妻の両家当主の話し合いで、離婚が決まったようです。 その結果、これまでの慣例にしたがって、夫が離縁状を書いたのでしょう。
   明治時代になると、離縁状を遣り取りする義務はなくなりますが、展示した離縁状のように、 明治時代になってからも、慣例として遣り取りされることがありました。
文責:伊藤 信明
 
 
  「犯人を指名手配する」  (平成22年8月25日〜11月28日)
   江戸時代の指名手配は、人相書(にんそうがき)と呼ばれています。 人相書は身体の特徴を言葉で書き記したものだけで、似顔絵は付いていません。 町や村の役人は、人相書が届くとそれを筆写して写しを手元に残し、届いた人相書を次の町や村へ送りました。 このような人相書の伝達方法では、似顔絵があっても、役人の絵心(えごころ)次第で、まったくの別人になったでしょう。
 
   「松坂牢舎脱獄者人相書」  堀家文書ア−138
堀家文書ア−138「松坂牢舎脱獄者人相書」
   嘉永3年(1850)正月13日夕方、松坂城(三重県松阪市、江戸時代は紀州藩領)三の丸のはずれにあった牢屋から、 牢番の衣類・お金を奪い、13名が脱獄しました。18日になって、紀州藩の行政を担当した勘定奉行西山与七郎は人相書を出し、脱獄した13名を指名手配しました。 人相書には13名の出身地・名前・年齢、体格、顔の色・形、月代(男性の前頭を剃った部分)の色、言葉遣い、服装などが記されています。
   彼らが再び捕まったかどうかは、資料が残っていないため解りません。紀州藩の刑法「国律」では、脱獄した犯人が捕まった場合は、 打ち首か脱獄前よりも二等重い刑罰を科すことになっていました。
   ここに展示した人相書は、江戸時代に捜査・逮捕・取り調べの警察業務を担当した胡乱者改(うろんものあらため)の手元に残されていたものです。 堀家は紀州藩の、北家は高野山領の胡乱者改を勤めていました。
 
   「大塩平八郎の乱首謀者人相書」  北家文書イ−401
北家文書イ−401「大塩平八郎の乱首謀者人相書」
   人相書を読んで、どんな顔を思い描きましたか。このような人相書で、はたして犯人逮捕につながったのでしょうか。
   天保4年から7年(1833〜37)にかけて、日本各地を大飢饉が襲いました(天保の飢饉)。この飢饉に際して、困窮する民衆の救済を求め、 大坂町奉行書に勤めていた大塩平八郎が挙兵しました。天保8年(1838)大塩平八郎の乱です。この挙兵は失敗に終わり、大塩平八郎は敗走します。 挙兵は幕府に対する重大な犯罪であったため、大塩平八郎は全国に指名手配され、その人相書が各地に残されています。 大塩平八郎は肖像画があるので、人相書と肖像画をくらべてみることができます。
   いかがでしょうか。人相書から、肖像画のような大塩平八郎の顔を描くことができるでしょうか。 人相書の記載は、肖像画の大塩平八郎の特徴をよくつかんでいるでしょうか。
   時代劇をみていると、人々が足をとめて、高札(こうさつ)に掲示された犯人の似顔絵を見ている場面がよくありますが、 これはまったく架空のものなのです。
文責:伊藤 信明
 
 
  「はんこの登録」  (平成22年6月16日〜8月24日)
   現在、土地・家屋など不動産の登記や金銭貸借の証書には、市町村役場に登録したはんこを用います。 同じような仕組みは江戸時代にもあって、田畑・屋敷の質入れや譲渡には、庄屋のもとに登録したはんこを用いていました。 はんこじたいが田畑・屋敷と一緒に、譲渡の対象となる場合もありました。
 
「安永七年十一月 譲状之事 岡家文書1072」 譲状之事 解題
   安永7年(1778)、中津川村(日高川町中津川)の三右衛門は、田畑・屋敷を平六に譲りました。 同時に譲り状の下げ紙で、三右衛門のはんこも平六へ譲っています。 平六が譲り受けたはんこは、下に展示した41年後の文政2年(1819)の名寄帳(土地台帳)では、三右衛門が登録しています。 このはんこは、三右衛門→平六→三右衛門と、三代にわたって引き継がれ用いられました。
 
「文政二年卯八月 新田名寄帳 岡家文書67」
  中津川村(日高川町中津川)では、名寄帳(土地台帳)の最後がはんこを登録する部分になっています。
  はんこを改めた場合は、古いはんこの印影を×で抹消して新しいはんこを押し、改めた日付を記入します。

文責:伊藤 信明
 
 
  「黒いはんこと赤いはんこ」  (平成22年4月7日〜6月15日)
   私たちは、今日、はんこを求められた時、朱肉を用いて赤いはんこを押します。 江戸時代では、赤いはんこは武士や貴族が限られた場合にだけ用いる、格式の高い特別なはんこでした。 普通は、墨を用いた黒いはんこを押していました。庶民が赤いはんこを押すようになるのは、明治時代になってからですが、 赤いはんこが一般的なものとなったのはいつのことなのか、よく解っていません。
 
   紀の川市名手市場堀家文書
         (上)文化五年正月辰歳中小入用割賦帳 ウ-108      (下)文化六年正月巳歳中小入用割賦帳 ウ-111
「紀の川市名手市場 堀家文書」
   文化5年(1808)と文化6年(1809)の、村の必要経費を計算した帳面です。帳面の最後には、関係者が立ち会い、 間違いなく勘定が行われたことを明らかにするために、名前を記してはんこを押します。 市場村(現紀の川市名手市場)に土地を持っているすべての人が必要経費を負担するため、140人の名前と黒いはんこが押されています。
 
   日高川町中津川岡家文書
         (左)脱落地有租地へ編入願 242      (右)脱落地有租地へ編入願 243
「日高川町中津川 岡家文書」
   明治18年(1885)、新しい様式で土地台帳の調製が命じられました。同時に、土地台帳の記載が実際の土地のあり方と違っていた場合には、 その訂正も命じられました。この資料は土地台帳に無い土地を、土地台帳に載せるための願書で、明治20年(1887)に知事にあてて提出されました。 この2冊の願書に署名をした人は、15人が赤いはんこ、37人が黒いはんこを押しています。 いまだ黒いはんこが多く、赤いはんこが普通に使われ始めるのは、まだ先のようです。
文責:伊藤 信明
 
 
  「紀州漁業絵巻写」にみる漁撈ぎょろう活動  ハマチ網漁  (平成22年1月13日〜4月6日)
   当館所蔵の「紀州漁業絵巻写」は、明治期の制作と考えられ、紀州で行われている伝統漁法を色彩豊かに描いた絵図を中心に、 漁具、特に網等の細部を図面化し、それらの解説を付した、全長約23メートルに及ぶものです。
 
「紀州漁業絵巻写」
   この原本は、内国博覧会等に出展する為に作成されたものであり、上下2巻のものでしたが、当館では上巻の写しのみ収蔵されています。 当資料の巻頭に付された「序言」には、「本書編纂ハ博覧会出品奨[虫損]ヲ以テ実業者ニ就キ聞キ得タル所ヲ記(後略)」とあり、当時、博覧会出展の為、 現地での聞き書きをし、調査をした旨が記されています。
明治期後期 日高濱網引 實景 紀伊国名所図会 日高編
   当資料によって、かつての生業形態が明らかとなり、現在では廃れてしまった当時の漁撈活動及び人々の生活を知る上では、大変貴重なものです。 ( 解説を全文読む
文責:裏 直記
 
 
 現在のケース展示に戻る
 
  「小梅はどのようにして『環海異聞』を写し取ったか」  (平成21年9月17日〜平成22年1月12日)
   『小梅日記』の天保8年(1837)分の裏表紙に「環海異聞、5月11日昼過より写しかけ、諸用事のいとまにうつせは8月4日まててやうやう終わる、 しかし絵の所十ヶ所程残る」という記述があるのが見つかりました。3ヶ月足らずの間で16冊もあるものを写し終えたということです。
 
『環海異聞』巻之一・二所収の「アシカ」図 『環海異聞』巻之七所収の楽器
   漂民たちは、寛政6年5月からおよそ1年の間、アンドレヤノフスキエ群島のアツカ島に滞在することになりましたが、 その間に見聞した事柄や物を大槻玄沢から示されたいくつかの絵を見ながら、ひとつひとつそれらの呼称をロシア語で表現しています。 ところが、巻之一に収載されている左の絵図には
      コージキの図
        コージキハ「コーチイカなるへし    「コーチイカ」ハ此嶋の近海専ら猟するものにて我海の海獺(アシカ)なりと光太夫いへり
        故に即チ其真図をここに模セリ
という詞書きがあります。このことは、大槻玄沢が12年前に露西亜から帰国していた大黒屋光太夫と何度か会って、 様々な図を見せてその名前や用途についてアドバイスを受けていたことを示しています。
   次回も『雑記』に写し取られた内容を、順不同にはなりますが、紹介していく予定でおります。ご期待ください。 ( 解説を全文読む
文責:須山 高明
 
 
  志賀裕春氏旧蔵  「小梅は嘉永七年の東南海地震を記録していた」  (平成21年7月15日〜9月16日)
   嘉永7年(1854、 11月27日「安政」と改元)の11月4日から6日まで駿河・遠江・伊豆・相模を中心に死者1万人余りを出す大地震・津波が発生しています。 いわゆる「安政の大地震」と呼ばれる地震群の1つです。小梅によるこの記録は、 その地震群の中でも非常に多くの記録が残されている「安政の東南海地震」の記録ですが、 他のもののほとんどが半ば公的な記録であったり、後からの懐旧談であるのに対して、これはまさに、ほぼ同時に記されたものであり、 その規模の大きさと小梅自身の心理の動きまでをなまなましく伝えており、本当に臨場感にあふれた記録であり、非常に貴重なものと言えます。
 
 
   次回も『雑記』に写し取られた内容を、順不同にはなりますが、紹介していく予定でおります。ご期待ください。 ( 解説を全文読む
文責:須山 高明
 
 
  志賀裕春氏旧蔵  小梅『雑記』に見える「ちょぼくれ」の意味  (平成21年5月15日〜7月14日)
   前回は「ちょぼくれ」の一部だけを読み下して展示しておりましたが、今回はその全文を読み下し、若干の解説を加えてみたいと思います。
 
  この『雑記』の表紙には「キョジツ(虚実)取交写(とりまぜうつす)」と書かれていることから、 小梅自身はこの「ちょぼくれ」にうたわれている内容は事実ではないと考えていたと判断するのが妥当かもしれません。
  因みに、「ちょぼくれ」とは江戸時代の大道芸の一種で、その中でうたわれた俗謡のはやしことばを指しますが、 上方では「ちょんがれ」と呼んだようであり、和歌山では「ちょんがり」と呼ばれていたようです。 したがって、この「ちょぼくれ」は江戸で発行されたものかも知れません。それを何等かのかたちで、小梅が手に入れたものと考えればよいのでしょう。

  次回も『雑記』に写し取られた内容を、順不同にはなりますが、紹介していく予定でおります。ご期待ください。 ( 解説を全文読む

文責:須山 高明
 
 
  志賀裕春氏旧蔵 小梅『雑記』(平成21年3月15日〜5月13日)
   今、話題の川合小梅は無類の記録魔であったことは、よく知られていることですが、 彼女の日記には下書きとも取れる『雑記』と題された写本が複数あったことは、余り知られていないのではないでしょうか。 それが此度、「小梅日記を楽しむ会」を通じて当館に寄託されました。
   そこで、今回は、元治2年から、写年未詳のものを含めて、明治17年に至る、現存している『雑記』9冊を一挙に展示してみようと思います。
 
   ほんの一部分ではありますが、十代藩主治宝の死の直後から始まった、 水野忠央(ただなか)を中心とする江戸派による伊達千広等の粛清時に囁かれた俗謡を紹介します。
   この『雑記』の表紙には「丙午(ひのえうま)」とありますので、志賀氏はこの成立を弘化3年と断定されていますが、 その年にはまだこれらの粛清劇は起きていないので、写年未詳としました。尚、この『雑記』は全16丁の内、14丁までが千広等の粛清関係記事で占められており、 小梅のこの事件に対する並々ならぬ関心が見てとれます。( 俗謡を読む
   今回は全容をご覧いただくために9冊をまとめて展示しましたが、 今後はこれらの『雑記』に写し取られた内容を、順不同にはなりますが、紹介していく予定でおります。ご期待ください。 ( 解説を全文読む
文責:須山 高明
 
 
  「乙卯秋 道之記」 瀬戸家文書  (平成20年12月14日〜平成21年3月14日)
   本書は、日高郡藤井で代々酒造業を営みながら、江川組大庄屋から天田組大庄屋になった、瀬戸家八代目左太夫こと、 瀬戸周菓の武蔵への吟行記です。
 
ケース内写真1   周菓は元来「雅趣に富みて俳句を好み、松尾塊亭に師事」(貴志康親著『紀州郷士芸術家小伝』所収)したと言われる人物で、 天保2年(1831)8月に58歳で病死しています。
  若くして江戸への吟行を思いついたのは正解だったのかも知れません。 とにかく、8月の末頃に藤井の里を出発して、住吉浦で最初の句を詠み、江戸に入るまでに12カ所で句を詠んでいます。また、江戸では浅草寺、日暮里、隅田川、 上野、両国、深川、増上寺などを回り一ト月余り逗留していますが、隅田川のところで、前年の3月まで紀州を訪れていた児島如水と再会しています。 児島如水という人物は『農稼業事』を著した農学者ですが、俳句も嗜んでいたようで、再会の喜びを即興で6句詠んでいます。 如水はこの年88歳ですから、親子よりも年が離れていますが、同好の士との再会には年の差は余り関係がなかったのでしょう。 ( 解説を全文読む
文責:須山 高明
 
 
 現在のケース展示に戻る
 
  「西国三十三番札所巡礼絵図」「西国道中記」堀家文書  (平成20年9月2日〜12月13日)
   ここに、展示している絵図と道中記は当館に寄託されている堀家文書中に含まれている史料です。
 
ケース内写真1   「西国三十三番札所巡礼絵図」は粉川南町に店を構えていた出版書肆の大坂屋長三郎が発行したものです。 状態は余り良いとはいえませんが、本街道部分が彩色されていますので、歩くには重宝したことでしょう。 図の左下部にある刊記の部分に「名所へまハる道のり附」として、「二ばんより三ばんの間にて己かのうら己か山へ行ば二りのまハり」などと、 いわゆる観光のための寄り道をした場合、どの程度の距離の回り道になるかを明記して時間を計る目安を示してくれているのは、ありがたいことだったでしょう。
  「西国道中記」は売り物ではなく、大坂長町八丁目にあった順礼宿の鍵屋(通り名)こと「でんぼうや喜兵衛」 が宿泊客に無料で配布していたものであったということが分かります。 ( 解説を全文読む
文責:須山 高明
 
 
  「和歌浦名所」を読み歩く  (平成20年5月1日〜8月31日)
   ここに展示しています史料は平成6年に当館に寄贈された北一夫氏旧蔵の文書群の中に含まれていたものです。 既にご承知のとおり和歌浦は、今年(平成20年)4月に県の史跡として指定されました。それで、この機会を利用して紹介することにしました。
 
ケース内写真1   内容は、いずれも高松茶屋を出発地点として、和歌浦周辺の名所・旧跡を回って行くというものですが、 そのコースは猊口石(げいこうせき)・亀遊岩(きゆうがん)・鶴立嶋(かくりゅうとう)・養珠寺・妙見堂・玉津島社・芦辺の茶屋・妹背山・下馬の橋・ 東照宮・天満宮・片男波(浦辺に出て眺めるだけ)・西浜通りに出て帰途につくという順路を取っています。

  万葉の昔から宮中公卿たちの憧憬の的であった和歌浦が江戸時代に入ると、往来物として江戸の町の庶民の間にまで浸透していったという事実と、 それが全国に広まったであろうと思われる点は、和歌山県人として誇りとして良いのではないでしょうか。 ( 解説を全文読む

文責:須山 高明
 
 
   二つの離縁状  (平成20年2月1日〜4月30日)
 
ケース内写真1   江戸時代の離婚は、三くだり半とも呼ばれた離縁状を、男性側(夫)が差し出し、女性側(妻)か受け取ることが必要でした。 離縁状には、離婚を宜言し再婚は自由であるとの内容が記されました。離縁状を出さなかった男性、離縁状を受け取らなかった女姓ともに、処罰の対象となりました。

  文書館の収蔵資料から、離縁状を2通紹介します。1通は、妻として男性の家に入った女性が離婚となり、男性の家から去る時に受け取った離縁状。 もう1通は、婿養子として女性の家に人った男性が離婚となり、女性の家を離れる時に差し出した離縁状です。
  展示資料のA(堀家文書ツ−385)とB(丹生家文書た−488)は、どちらの離縁状に該当するのでしょうか。 再婚する時の状況を考えながら、資料を読むと解ってきます。
 
 
  西山与七郎宛知行目録  (平成19年12月1日〜平成20年1月31日)
   この知行目録には、明和8年(1771年)12月付で西山与七郎(三代目武政)に対して知行高合わせて二百石を所務すべき旨が記されています。 知行目録は領主(藩主)から家臣へ充行われた知行(領知)の目録で、加増や跡目相続、新知(新しく知行を充行われる)などに際して発給されました。
   この西山家への知行目録の発給にはどのような意味があったのでしょうか。
 
ケース内写真1
 
   西山家が藩へ提出した「系譜」(『紀州家中系譜並に親類書書上げ』以下『家中書上げ』)によると、 同家の元祖与惣兵衛、二代目の与七郎高弘に対しては「切米」が下し置かれていました。
   江戸時代、幕府や藩が家臣に与えた給付には知行地の土地・百姓を直接支配させ、年貢を受取らせる地方知行と、 百姓が米蔵に納めた年貢米を俸禄として受取らせる切米給与の2種類の方法がありました。
   西山家三代目当主の武政も、跡目を継いだ当初は切米十二石が下し置かれていました。
   しかし武政はその後加増され、宝暦11年(1761)正月に切米八十石となり、明和8年(1771)11月17日付で「久々精出相勤候付」として、 御使役並から留守居物頭を仰せ付られました。これと同時に、切米八十石から地方(知行)二百石にお直しとなったのです。
   前述の知行目録が発給されたのも明和8年で、知行高も二百石と系譜の記述と一致していることから、 この知行目録はこのとき発給された知行目録と考えられます。 ( 解説を全文読む
文責:松島 由佳
 
 
  「俳諧花の庵」  (平成19年10月2日〜11月30日)
   今回は小川家文書中に含まれる句集のうち、『俳諧花の庵』という写本の中の小川英二郎の句をいくつかご紹介しましょう。
   江戸期、特に幕末には武士・町人を問わず、和歌や俳句または狂歌などに秀でることがそれぞれの教養の高さを計る尺度とされていたようですので、 人々はこぞってそれらの研鑽にいそしんだようでもあります。
 
ケース内写真1
句の読み下し文はこちら
   本書は16人の句で構成されていますが、主唱者は岡田春岡と矢部矢直という人物で、連句形式をとっています。
   本書には前句・後句を分割すると総計144句が収録されています。そのうち梅舟の句は14句あり、矢部矢直と岡田春岡とほぼ同数です。 16人の最後に名が記されているということは、最初に登場する2人と小川梅舟の実力がほぼ同等と見なされていたことをあらわすのでしょうか。 この句集の場合、最初に登場する詠句にはきちんと名前が記されていますが、次句からは重なる名がない限り、一字しか記されていません。 それが一般的であったのかは分かりませんが、「舟」と書かれているのが小川梅舟が詠んだ部分です。( 解説を全文読む
文責:須山 高明
 
 
  松崎茂平書状  (展示期間:平成19年8月1日〜9月30日)
   ここに展示しております書簡は、岡茂こと松崎茂平から大変な蔵書家であった小川能守にあてて出した、 あることを依頼している文書です。その内容はというと、
 
   最近「油長」と「堀嘉」という2人の商人が書物商売に進出するにあたって、 駸々堂と兔屋という当時の大書店からたくさんの安売り本を仕入れて売り捌きたいので、書物仲間に入れてほしいと「古新」と私(茂平)に対して言ってきています。 とりあえずは同意をしてはいますが、そのような思いつきで始める事業には危険もつきまとうこともあり、成功するという見込みも立てられません。 そこで蔵書家でいらっしゃる能守様にもご意見を伺いたいとともに、誠に突然のこととて恐縮ですが、 従来ご購入されている書物のうちでこの目録中の書物類に定価が分かるものがありましたら明朝までにご記入いただきたい。
   という非常に勝手と思われる書簡です。よほど切羽詰まっていたということでしょうが、 逆にそれだけ2人の関係も深かったものとも考えられます。 ( 解説を全文読む
文責:須山 高明
 
 
<